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記事タイトル

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2025年5月25日 12:14
「森永ヒ素ミルク中毒事件の現在」で触れたが、1955年(昭和30年)に発生した森永ヒ素ミルク中毒事件で、森永乳業は、事件発生直後から国を前面に押し立てて被害児救済運動を封殺し、翌年以降はメディアからも被害者家族の訴えを消すことに成功した。報道もされない、報道しかけた雑誌も途中で黙らされる、「読者の声欄」からも排除され、という完璧な封殺体制のなか、国民も事件を忘れていった。
これ以降、被害者救済運動は岡山市で「森永ミルク中毒の子どもを守る会」の岡崎哲夫事務局長をはじめとした数家族のみで細々と維持されていた。
その訴えはことごとく無視され、孤立無援の中での闘いを余儀なくされていた。その数家族も年に一回、岡崎宅に集まるくらいで、実務は岡崎個人が一身に引き受けていた。(もちろん、この孤独な闘いがなければ、その後の14年目も、裁判での勝訴も、恒久救済対策案と1974年のひかり協会発足など、一切が、存在し得ていない。私も幼少の頃からガリ版の印刷や書類の発送といった作業を、時には真冬の土間で一人でやらされていた。あったのは小さな石油ストーブ一台。この地味な作業を他の被害者家族が手伝いに来ることはなかった。)
この抹殺状態が続いた12年後の1967年に、森永は、事件を社会から完全に消し去ったと「確信」し、ある決断をした。
「被害者家族に対して勝利したこと」を「わが社の栄光の歴史として」活字に残し、永久に記録することだ。

森永は1967年に発刊した『森永乳業五十年史』(ポスター8P参照)に、救済運動の圧殺に協力させた者の実名を、県名から社名まで名指しで紹介し、これらの組織と“共に喜びを分かち合おう”とした。(『ヒ素ミルクⅠ』に詳しい(DL Free 分冊1,分冊2 その発言者の素性については明かされてこなかった。)
文中、元森永社員で1967年当時「電通」の常務取締役、かつ、大戦中に戦時プロパガンダに協力した「報道技術研究会」幹部の「新井静一郎」が登場する。赤ん坊殺しへの反省など微塵もなく、自慢げに「宣伝の威力」を語っている。
対談の全体は、結構な長文なので、決定的な部分にだけに絞って、いくつかにわける。
第一回は、昭和30年の事件を「MF」と隠語で表し、他人事のようにうそぶいている。全編「お上品な言い回し」で、森永への直接協力者を実名で褒めながら、カネと宣伝で、なにもかもが操作できると豪語する。
これが、「エンゼル(天使)マーク」で売ってきた企業の正体である。
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1955年、原乳の腐敗を隠すため産廃由来のヒ素混入物質を投入した森永乳業の粉ミルクで130人以上の乳児死亡、1万3千人の患者。反省なき森永は国を使って20年に亘り救済運動を弾圧。不買運動で倒産寸前となった森永は渋々救済案に応じるが、以降も不正な工作を続け2022年再び提訴された。
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森永と電通ー悪魔の対談 その1 「たまたま始まっちゃった(事件)」で「損害を受け」たけど「森永への好意と理解を急速に回復」|森永ヒ素ミルク中毒事件資料館 岡崎久弥
https://note.com/no_more_morinaga/n/nbbd0bad831d2