1955年、森永ヒ素ミルク中毒事件が発生しました。
事件直後から被害児救済の活動に立ち上がり、20年以上にわたって運動の中心を担った岡崎哲夫は、被害の実態、行政・企業との交渉、救済運動の経過を記録し続けました。
その記録は現在、数十万ページに及ぶ事件関係の一次史料として保存されています。
1970年代、裁判や社会的批判を背景に、森永乳業は「恒久救済対策案」の実施に合意しました。1974年には、その実行機関として「ひかり協会」が設立され、社会的には事件は「解決へ向かった」と受け止められるようになりました。
しかし、その後の救済のあり方については、当初掲げられた理念や約束がどのように実現されたのか、また被害者の声が十分に反映されてきたのかという問題が、現在まで問われ続けています。
岡崎哲夫は、被害者救済運動の内部において、運動の自主性、言論の自由、民主的な運営、そして被害者の尊厳をめぐる対立に直面しました。12年にわたる抵抗ののち、1986年、自らが中心となって築いた運動から排除されることとなりました。
2000年7月、岡崎哲夫の娘で被害者であったゆり子が亡くなり、同年12月には岡崎哲夫本人も他界しました。
岡崎哲夫の死後、重症被害者の家族から、救済の現状や制度のあり方を問う声が上がり、裁判や人権救済申し立てが次々に行われるようになりました。
他方で、2000年頃から、ある有名な元弁護士の著作を皮切りに、乳児の時にヒ素ミルクを飲まされた被害者が、
「今では、加害企業に感謝している」
「ヒ素を飲んで良かったと言っている。十分な救済を受けて、いまでは、加害企業とたいへん円満な関係にある」
かのような、「創作物語」が洪水のように流されました。
1986年から静かに資料を守ってきただけの当館は、しかし、このような、歴史の偽造と、被害者の尊厳を傷つける社会状況を見過すことはできませんでした。それでもギリギリと何年も、悩み続けました。父の粛清の歴史をつぶさに見てきた私には、「二度とこの事件を覆う闇に足を踏み入れるな」という声が心の奥で鳴り響いていました。
その一方で、金と権力を傘にきてメディアを再動員しての歴史偽造の動きはますます傲慢かつ巧妙になっていました。
被害者の尊厳よりも加害企業を美化する物語が優先されている状況を目の当たりにし、私は1955年当時の社会認識に舞い戻っている状況が確認できました。
苦しむ重症被害者の声を聞きつづけ、葛藤が極限に達していました。それでも呻吟しつつ、あっという間に10年がたっていました。10年たって、なにかが自分のなかではじけました。
果たして、そんなことがあり得るでしょうか?
たとえば、あなたが、同じ目にあったら?
そして、被害を受けたあなたの気持ちが、
もし、そのように宣伝されたとしたら?
2010年、岡崎哲夫の遺族によって公開展示室が開設され、Web発信を開始しました。
森永ヒ素ミルク中毒事件資料館は、被害者の尊厳を守る立場から、記録を通じて歴史の検証を続け、現在の状況にも切り込む資料館です。今この時も、歴史が作られているとの認識からです。
残された一次資料をもとに、何が起こり、現在も何が問われているのか。
そして、「人間の尊厳は守られているか?」を「問い」、伝えること。
それが資料館の役割です。
事件の記憶を未来へ継承するため、尊厳を求めて闘った者たちの姿とその真の声を永久にとどめるため、資料館は現在も活動を続けています。
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【現在の公開について】
現在、資料館は予約制で開館しています。
資料の保存・整理および運営上の事情により、通常の一般公開は行っていません。見学をご希望の方は、事前にお問い合わせください。
開館:予約制
見学:
見学をご希望の方は、必ず事前にお問い合わせください。
運営者は通常の仕事をしながら資料館を運営しています。そのため、見学日時は双方の都合を調整のうえ決定します。あらかじめご了承下さい。
【ご注意】駐車場及びトイレはありません。
電話:086-224-0737
所在地:〒700-0811
岡山市北区番町1丁目10番30号
担当者:岡崎久弥
資料館案内リーフ
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1.WHO[世界保健機関] 搾取的粉ミルクマーケティングの衝撃的レポート [1] [2] / 2.United Nations University Press [国際連合大学出版] 技術と産業公害> 森永ヒ素ミルク中毒事件 [English Version] [1] /3.Report of Morinaga Arsenic Milk Poisoning Incident [English Version] [1] [2]
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