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森永と電通─悪魔の対談 その3 「狙いは保健婦」“赤ちゃん格付けコンクール”「おもしろかった、愉快だった」…。

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森永と電通─悪魔の対談 その3 「狙いは保健婦」“赤ちゃん格付けコンクール”「おもしろかった、愉快だった」…。

森永ヒ素ミルク中毒事件資料館 岡崎久弥

2025年5月28日 21:27

 遺族として、加害企業の悪魔な放談を活字化するのは、正直にいうと精神的にきつい。森永という社名やロゴを、CMや店頭やネット広告で見させられるたびに嫌悪感で気分が悪くなる。加えて、事件の歴史を書いていると、ネット上のアルゴリズムが「森永」の広告をどんどん「推し」で出してくる。更にだめ押しがある。森永の不正工作への批判の防波堤代わりとして、言論と人権を抑圧しながら被害者を支配している現「被害者団体」や「ひかり協会」をもてはやす岡山メディアの番組などが数珠繋ぎになって「推し」で登場する。精神的な拷問以外の何ものでもない。

「展示をやめろ」と資料館に押しかける者たち

 だが、人権をはく奪されて苦しんでいる重症被害者がいることや、無念のうちになくなった犠牲者、いまだにものが言えない状況下におかれた被害者のことを考えて、思い直す。深呼吸をして、平静をたもち、何をするべきか静かに考えなおす。こんな毎日が何十年も続いている。
 歴史が捻じ曲げられてきたこの半世紀のこと、不正な被害者工作をやめない森永。森永が電通OLを経て、首相夫人のポストにありついて嬉々としている姿。安倍晋三批判を売り物にする政治勢力が、裏で森永&安倍家との利害関係者となり、陰湿に弱者を代行支配している二枚舌。許容量を超えた欺瞞。
 おまけに「カネを出してくれている企業を悪く言う展示はやめろ」と恫喝を加えに集団で資料館まで押しかけてくる輩もいる。所属団体から刷り込まれ洗脳され、歯車のように操縦されている情けない者たちだ。もちろん背景企業が元凶だが。

 こんな狂気が充満している社会に対しては、非力であっても、抵抗しないわけにはいかない。

赤ん坊の格付けで母乳育児の駆逐を開始した森永乳業

 森永が「岡山から始めた」と自慢する「赤ちゃんコンクール」(※1)しかり。当時のNHKまでが便乗し、医師が聴診器片手に赤ちゃんのおなかをポンポンと叩きながら、大した根拠もなく適当に「格付け」していく。よく考えてほしい、赤ん坊の格付け、である。一体なんなのだ。粉ミルクを飲んで丸々太った赤ん坊をほめたたえる。他方で、ほめられない赤ん坊がいる、ということだ。母乳育児をしている母親の不安を様々に煽って、粉ミルクへ転換させる仕掛けだ。
 森永乳業が、「赤ちゃんコンクール」を始めてまもなく発生した、森永ヒ素ミルク中毒事件。このあと、阪大と岡大の小児科の権威なる医師によってつくられた不正な「治癒判定基準」。これに従う全国の小児科医は、後遺症疾病に苦しむ被害児の親がヒ素ミルク飲用を訴えて子どもを病院に連れて行っても「おなかをポン」と叩いて「異常なし」と追い返した。「聴診器も使いよう」ということか。

 さて、森永は、「対談その1」で、行政や地元紙を取り込んだと豪語したが、さらに、ある重要な資格職まで名指しして、“喜ばすために映画を見せて教養をつけてやった”と自慢する。
 対談の開始だ。

新アイディアぞくぞく登場

 司会 昭和7年ごろ、練乳会社にはデザイナーが専属にいたのでしょうか。
 新井 デザイナーは、少なくともふたりは確実にいた。新聞広告のようなものは、おそらく製菓のほうに頼んでいたんでしょう。…(中略)…私の覚えているのは小野健次さんという絵かきさんです…(中略)…多田北鳥さんのかいた森永ドライミルクのポスターと似たような画風で、小野さんたちもかいておられました。…(中略)…
 藤本 …(中略)…この森永ドライミルクのポスターは、多田北鳥さんで、しかもこれは額縁へ入れて小売店の店頭に長い間、飾っていましたね。これはたいへんなもんです。当時は新聞広告も効くだろうけれども、むしろポスターのほうが、そういった店頭効果を兼ねた力をもっていた。そういう意味では、このポスターはかなり大きな要素ではないかと思うんです。…(中略)…
 司会 ではこのへんで戦後の宣伝活動に入りたいと思います。25年にビタミン入り森永ドライミルクが発売されたときに、藤本さんが当時のポスターを制作されたということからお願いします。
 藤本 (中略)…その当時としては、リアルな赤ちゃんのかわいさをねらうつもりだった。つまり薬屋さんや販売店には、多田さんのポスター以来、店頭に額ぶち式のポスターを飾るという習慣があったんですよ。このポスターの効果というものは…(中略)…ひとつの大きな役目を果たしていた。そういうことでポスターを重視していた …(中略)…それからやはり25年に、はじめてサザエさんの漫画を広告に取り入れた。これは松崎会長に麻布へ呼ばれてほめられたんで、いまでも覚えているんだけど、これは当時サザエさんの人気が非常に出たので、これを新聞広告に利用し、初めて色刷りをしました。5月5日の子供の日に、サザエさんがワカメちゃんかなにかの背をはかっている絵がある。森永ドライミルクの広告でした。
 司会 27年から「森永映画鑑賞会」というのが各地で開催されましたが…。

 銀星号全国を巡回

 藤本 そのねらいは保健婦さんです。特約店関係もありますけれども、保健婦さんのそういった教養的なサービスをして、好意をもってもらおうという考えだった。
 司会 26年からラジオ番組「マザータイム」がはじまり、つづいて27年、ドラマ「愛する」「母を語る」…。そして27年には森永ホモ牛乳発売、平塚工場にロケットミルクプラント新設と忙しくなりますが…。
 藤本 非常に活発にやれたんですね。当時大野晃現社長が、われわれにまかせてくれたことと、われわれのアイディアを買ってくれたことですね。いま考えれば、はらはらするようなことも、当時は向こう見ずにやったという感じがする。…(中略)…
 司会 ホモちゃんにちなんで28年には「ホモちゃんの歌」がサトウ・ハチローさんにつくってもらって誕生しました。そして、ロケット・ミルクプラントの完成で銀星号という宣伝車が生まれ、全国各地を巡回しはじめたのもこのころでした。それから28年7月に「ボクちゃんの誕生」があります。
 藤本 この記録映画そのものも非常に冒険だったけれども、映画をつくり、かつそれを新聞広告で主役の赤ちゃんを1カ月から12カ月の誕生まで、ずっと連続して広告したわけです。これを基準に発育標準表のようなものをつくったりして、一本化して広告をやったわけです。
 
 大ヒットあかちゃんコンクール
 
 司会 
29年1月のお正月用新聞広告から「ベビースターの写真募集」がはじまりましたが、これは楽しかったですね。
 藤本 これはユーモラスなテーマを提供しようということで、当時の人気者に似た赤ちゃんの写真を募集したんです。これは意外に似た赤ちゃんが出てきて、毎回おもしろかった。…(中略)…
 新井 ことに赤ん坊の世界だから、よけいにほほえましいんです。
 藤本 たしか新井さんにも、いろいろお骨折りいただいたんですが、近藤日出造さんとか、サトウ・ハチローさんなどに審査員に出てもらって、なかなか愉快でした。
 司会 それから同じく29年1月から「赤ちゃんの生活展」が日本橋の高島屋を皮切りに、その後、全国各地で展開されました。そのころ盛んになってきた催しで赤ちゃんコンクールがありますね。このことについて何かお願いします。
 藤本 赤ちゃんコンクールは、最初に岡山ではじめたんですが、これはもっと前のことです。 
 以下に続く内容が、「森永ー電通 悪魔の対談 その1」である。

『森永乳業五十年史』p466

「サザエ」は見なくなった。

被害拡大の理由を承知の上で…「楽しかった」「面白かった」「愉快だった」…としゃべりまくる

 岡山県では三木行治(みき・ゆきはる)県政の下で、この「保健婦さん」が母親に「他社ミルクから森永へ変えるよう」働きかけていた。岡山県が2300名近い全国最大の被害者を出した背景の一つである。
 ところで、森永乳業は、「保健婦さん」はよほど教養がない人種と考えているのだろう。広告屋よりはよほど高度な知識を備えていると思われるが、結果的に操縦されたから、言い訳ができない。森永乳業は、わが社が「教養的なサービス」をしたと誇る。ところが、それが映画観賞会というのだから保健婦も、また映画さえも、随分と見下げられたものだ。(森永に利用されたのんきな邦画大作については別途書く予定)
 「赤ちゃんのかわいさ」「マザータイム」「愛する」「母を語る」…。131人の赤ん坊を死に追いやり、後遺症追跡を求める親を封殺し続けたことを自覚しながら、これらの言葉を流ちょうに口にする広報部隊のトップ…。
 対談は、ますます核心領域に入っていく。

(※1)「赤ちゃんコンクール」について

 NHKは現在、「昭和のアーカイブ」でこの「赤ちゃんコンクール」をオンラインで流しながら、いまだに懐かしそうに振り返っている。注釈をつけるべきではないか?

『技術と産業公害』(国際連合大学)第3章:砒素ミルク中毒事件(抜粋)

…(前略)…
 また森永乳業は,戦前に医師・看護婦による乳児診断車を東京・大阪で巡回させ,医師・看護婦の協力が,宣伝に大きな効果があったことから,医師・看護婦,そして医学界に対する働きかけを強化していった.
 一方,1952(昭和27)年の乳製品の輸入減による好況を背景に,製菓業を含む乳業資本は,原料乳確保に争奪戦を演じた.北海道を本拠とする雪印乳業が東京に進出し,明治乳業と森永乳業が北海道に再進出して,熾烈な争奪戦を展開した.このため北海道の乳価は,1954(昭和29)年に50%も上昇したのである.
 しかし好況は持続せず,1954~1955(昭和29~30)年にかけて,乳製品の売れ行き停滞・厖大なストック・金融行詰り等の不況に見舞われた.だが調整粉乳の需要は拡大し,生産量・消費量(表3-5)共に上昇する.またこの不況を通じて雪印・明治・森永の三大乳業資本は著しく伸長し,1961(昭和36)年の全国乳製品製造業の出荷額において70%を占め,表3-6の業績をあげて独占的地位を確立した.この間,森永乳業は調整粉乳部門においてトップに立ち,砒素ミルク中毒事件発生当時,全国シェア60%,関西地区で65%を占めるにいたったのである.
…(中略)…
 こうして小児医学界の権威歴々の推薦と,病・産院,小児科・産科医を動員した人工乳の包囲網は,赤ちゃんコンクールによって,母たちを積極的な人工乳の受容に向かわせた.1951(昭和26)年,森永乳業が開始した8カ月児のベビーコンクールは,乳業資本が赤ちゃんコンクールによって利益を享受していたことを表現していたといえるだろう.1953(昭和28)年以降のNHKテレビの赤ちゃんコンクール(関東圏)は,人工乳受容の度合の高さを示していた.そしてこれらは,さらに母乳の駆逐をおし進めていった.
 また戦後復興による婦人就業者の増加(表3-2)は,哺育制度の貧困なわが国において,簡便な人工乳の浸透に一層の拍車をかけた.1920年代,混合栄養を合わせて10%にすぎなかった人工栄養児は,1970年代に70%にも達するのである.
表3-2 就業状態及び性別人口数[1947~1956(昭和22~31)年]
…(後略)…

技術と産業公害』
第3章:砒素ミルク中毒事件
著者名: 東海林 吉郎/菅井 益郎
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
出典:https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe5_d04.html

 NHKは現在、「昭和のアーカイブ」でこの「赤ちゃんコンクール」をオンラインで流しながら、いまだに懐かしそうに振り返っている。注釈をつけるべきではないか?

森永ヒ素ミルク中毒事件資料館 岡崎久弥

https://morinaga-arsenic.jp/ 1955年、原乳の腐敗を隠すため産廃由来のヒ素混入物質を投入した森永乳業の粉ミルクで130人以上の乳児死亡、1万3千人の患者。反省なき森永は国を使って20年に亘り救済運動を弾圧。不買運動で倒産寸前となった森永は渋々救済案に応じるが、以降も不正な工作を続け2022年再び提訴された。

森永と電通─悪魔の対談 その3 「狙いは保健婦」“赤ちゃん格付けコンクール”「おもしろかった、愉快だった」…。|森永ヒ素ミルク中毒事件資料館 岡崎久弥

https://note.com/no_more_morinaga/n/n84e18e244c0d

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1.WHO  [世界保健機関] 搾取的粉ミルクマーケティングの衝撃的レポート   [1]    [2]      [3]    /   WHOが乳幼児食品業界に対し搾取的粉ミルクマーケティングの中止を要求  [1]   粉ミルクとタバコは、国際的な販売禁止の勧告がある唯一の二つの製品である  [ 2 ]     [3]   / 2.United Nations University Press    [国際連合大学出版]  技術と産業公害> 森永ヒ素ミルク中毒事件      [English Version]  [1] /3.Report of Morinaga Arsenic Milk Poisoning Incident [English Version]   [1]        [2]  

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©Museum of Morinaga Arsenic Milk Poisoning Incident