森永ヒ素ミルク中毒事件のあゆみ /闘い・救済・制度化・変質・抵抗・検証・再抵抗・記録…をめぐる問題

森永ヒ素ミルク中毒事件は、1955年に発生しました。

事件発生直後から、被害を受けた子どもたちの救済を求める運動が始まり、岡崎哲夫らは被害の実態を社会に訴え、企業責任と行政の対応を問い続けました。

しかし、事件直後から森永と国からの抑圧はあまりにも激しく、救済への誹謗中傷、分断工作は熾烈を極めました。

1.事件発生と救済運動の出発

発生から数年のうちに、社会的関心は急速に失われ、報道も沈黙しました。その結果、運動を支える被害者家族は、事件発生2年後には、岡山の岡崎哲夫と少数の家族のみとなりました。その後、14年間の暗黒時代、救済運動を継続して支えたのは、このわずか数家族の闘いです。

2.再燃した救済運動と制度化への道

1969年以降、社会の様々な階層から被害児救済を求める動きが再び広がりました。

裁判、不買運動、市民の支援などによって、森永乳業は14年ぶりに、社会的責任を問われることとなりました。

しかし森永乳業は、救済に応じないまま、懐柔案などで世論を欺こうとする画策を続けました。ついに、森永製品全面不売買運動が開始され、森永は経営が傾いていきました。

不買運動が全国に広がり、経営に打撃が加わり始めたとたんに、森永は豹変し、国を通じて三者会談を申し込んできました。森永有罪の徳島差し戻し審判決も出ました。

1974年、森永は「三者会談」で「恒久救済対策案」の実施に合意しました。ただ、これも、裁判と不買運動に押された結果のことで、そもそも、森永がいやいやながら救済に合意したに過ぎないことは、当時の人々にはよく認識されていました。

したがって「ひかり協会」の在り方をめぐっても設立当初から厳しい議論がありました。加害企業には真の反省が欠如している、それゆえ、いつ森永から干渉されて救済事業が変質に追い込まれるかわからない、と見抜かれていたわけです。

1974年、その実行機関として「ひかり協会」が設立され、森永事件は表向き・社会的には「解決した事件」と理解されるようになります。

しかし、制度が成立したことと、救済の理念が永続的に守られることは、同じことでは全くありません。

そして、基金の中で、被害児救済運動の中で、異常な出来事が連続して起こるようになりました。

つまり、救済とは何か、被害者運動とはどうあるべきか、企業責任をどのように問い続けるのか、という問題は、制度成立後も残され、厳しい議論が続きました。

3.救済基金の急激な変質と後退

「基金」が発足し、同社から資金が拠出されるようになりました。すると、当時の市民らが恐れていたことが起こります。

「事業」開始後2年あまりで、当初合意した救済策から「基金団体」が後退し、急激に変質していきます。並行して民主集中制を旨とする党派的政治勢力の急激な介入(浸透工作)が進行し完成段階にきていました。抵抗者を追い落とす政治的工作が内部で荒れ狂うようになりました。

全国の親たちは、「ひかり協会」発足後2年目にして、その後退に厳しい抗議の声をあげています。

そして、この「後退現象」に抵抗する内部の闘争が10年近くも続きました。

つまり、被害児の親、特に重症被害者の親のなかには、その後の救済のあり方について疑問を抱き、制度の検証を求める声を上げ続けた人々が多数いたということです。

しかし、次々に多数の寝返りと沈黙が仕掛けられ、抵抗闘争は制圧されて行きます。それが何を「媒介物」にして行われたかは、皆さんの想像にお任せするしかありません。

しかし、ある示唆的な事件が1978年に発生しました。

【ケース】死亡被害者遺族が森永を裁判で訴えた際、判決に至らず、1976年に「法廷内和解」となったケースです。法廷での表向きの和解金は295万円でした。しかし驚くべきことに「裏和解」が行われていました。これは新聞のスクープで初めて露見したことで、森永はひそかに1605万円を支払い、遺族もそれを「裏金」と受け止めてて受領していたという事件です。(毎日新聞1978年10月26日)この件は、非常に複雑な背景があるので、安易に遺族が責められる問題ではありません。ただ、森永の手法がわずかに報道によって察知された一例です。

岡崎哲夫は民主集中制の介入に対する12年間の抵抗闘争ののち、政治謀略を仕掛けられ、1986年に、自らが創建した運動から除名・排除されました。

4.闘いと救済の緊張関係、基盤を継承できる人材の不足

森永事件の救済運動の変化を考える際、単純に「制度化によって組織が官僚化した」と見るだけでは十分ではありません。

より深い問題は、制度化の過程を内部から検証し、必要な修正を求めるための歴史的経験と人的基盤が、十分に継承されていたのか? という点にあります。

事件発生直後から企業責任を問い、長期間にわたり救済運動を支えてきた家族が少数しか残らなかったことは、その後の運動に大きな影響を与えました。

本来、長年の経験を持つ当事者が、新たな参加者へ歴史や理念を継承することで、運動は自らを検証し続ける力を持ちます。

しかし森永事件の場合、初期段階でその継承基盤が大きく失われました。

このことが、後の救済制度のあり方や、内部で生じた問題を考える上で重要な背景となっています。

5.救済運動をめぐる対立と検証の課題

ひかり協会の成立後、救済事業の方向性や運営のあり方をめぐり、被害者や家族の間でも様々な議論が生じました。

問題は、単に制度が存在するかどうかではありません。

当初掲げられた救済理念がどのように維持されているのか、被害者の声がどのように反映されているのか、内部で自由な議論や検証が可能なのか、という点でした。

岡崎哲夫の排除事件以降、この問題の内部がブラックボックス化したことをみても、森永事件の救済運動がどのような理念と歴史認識を継承してきたのかを考える上で、重要な検証課題となっています。

6.閉ざされた記録と再検証への歩み

1980年代以降、森永事件をめぐる内部の問題は、ブラックボックス化され、社会に広く知られる機会が少なくなりました。

しかし、救済とは本来何であったのか、当初の理念はどのように受け継がれたのかという問いは残り続けました。

2000年、岡崎哲夫の長女で被害者であったゆり子が他界しその後を追うように、哲夫も他界しました。偶然にも、それを知った当時の市民が追悼文を書いたことで、事件が二度目の「再燃」を起こしました。

以降、再度、高齢となった被害者家族から救済事業のあり方を問い直す声が上がり、長年の経過について再検証が行われた結果、「恒久救済対策案」の事業項目が9割も放棄され1割しか残っていないことが明るみとなりました。

1980年当時は、「救済」に期待を残すあまり、声をあげる決断がつかなかった被害者の親も、20年たって、貧困な状況が固定化されていることに気づき、その最後の力を振り絞って、裁判や人権救済申し立てが相次ぐようになりました。

その中で、「救済」の空洞化を支える基礎に、歪曲された歴史観が存在していることも明確となり、岡崎哲夫の遺族によって2010年に事件の概要を伝えるための公開展示室がオープンしました。(一次史料は一部のみ公開)

歴史とは、単に制度の成果だけを記録するものではありません。

そこに至るまでの苦闘、葛藤、対立、失われた声こそが記録されなければなりません。

7.苦闘の歴史を振り返る意味

冒頭に少し触れましたが、1955⁻1969年の、この長い孤立の時期こそが、森永事件のその後を理解する上で極めて重要な意味を持っています。

のちの1969年の事件再燃を準備したのも、この家族らの闘いでした。

反面では、あまりに長い孤立期間のせいで、森永乳業の体質を知り尽くす人間がほとんど存在しておらず、1969年以降に参画してきた人々が、森永の工作で懐柔され、少数の歴史的な経験者を排除すれば、そのあとは、いかようにも懐柔できる素地が当初からあったということです。

党派勢力の介入を許してしまう素地もここにあります。

しかし、これとても森永乳業と国による苛烈な圧殺政策の「副産物」にほかなりません。

ここからいえることは、加害企業は「自らの罪を何重にも重ねるような支配」を続けているのではないか? 苛烈な圧殺政策を実行した企業が、それを受けたゆえにもつ被害児救済運動の弱点を拡大させる工作を行い、最後の最後まで被害者を間接支配して得をする? こういう社会的弱者への植民地主義的な支配手法、そして、特定の政治勢力に代行支配させる手法。このやり方が、今後、日本社会に許されてよいのか? これは私たちが決して見たくない世界ですが、これからも現実に発生しうるという意味で、きわめて重要なテーマです。

8.資料館設立と歴史継承

森永ヒ素ミルク中毒事件資料館の目的は、特定の立場を主張することだけではなく、一次資料や証言を保存し、社会が事件を検証できる基盤を残すことにあります。

しかし、その歩みは決して平坦ではありませんでした。

資料館の活動や展示内容をめぐり、「お金を出してくれている企業のことを悪く言うな」「被害者の認定に協力するな」などと館の閉鎖を求めて執拗に直接的な圧力をかけてくる者もいます。

歴史を誰が記録し、どの声を後世に伝えるのかという、歴史を記録する営みは、現在も、「森永乳業とその新たな共犯者」との闘いとして続いています。

ちなみに、「公益財団法人ひかり協会」などが発表している、救済事業への自己賛美ともいえる「報告書」の数々は、いわば森永乳業の資金によって「公式に」まとめられている「歴史」です。その内容を検証する限り、真実の歴史とは程遠いものです。

9.現在も続く問い

森永ヒ素ミルク中毒事件は、過去に終わった出来事ではありません。

2022年からは、高齢化した被害者家族から森永乳業を相手取って、再度、裁判が提起され、救済のあり方を問い直す声が上がっています。

この事件は現在も、

どのような闘いの歴史があったのか?

今があるのは、なぜか?

被害者救済とは何か?

企業責任とは何か?

制度化された救済を誰が検証するのか?

歴史は、誰がどのように記録し継承するのか?

という問いを社会に投げかけています。

森永ヒ素ミルク中毒事件資料館は、被害を受けた人々の尊厳を守り、記録を通じて歴史を検証し、未来へ伝えることを目的としています。

1955年の事件発生時点から記録蓄積を開始して71年。

1986年の現物資料の本格整理から40年。

2010年の公開展示室開設と同事件では日本初のウエブ発信から16年。

今後も、当資料館は、多くの市民との対話を重ねながら、事件の記憶と記録を次世代へ継承していきます。

2026年8月24日 

事件発表から71回目の夏に 

岡崎久弥

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1.WHO  [世界保健機関] 搾取的粉ミルクマーケティングの衝撃的レポート   [1]    [2]      [3]    /   WHOが乳幼児食品業界に対し搾取的粉ミルクマーケティングの中止を要求  [1]   粉ミルクとタバコは、国際的な販売禁止の勧告がある唯一の二つの製品である  [ 2 ]     [3]   / 2.United Nations University Press    [国際連合大学出版]  技術と産業公害> 森永ヒ素ミルク中毒事件      [English Version]  [1] /3.Report of Morinaga Arsenic Milk Poisoning Incident [English Version]   [1]        [2]  

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