写真はNHK報道画面
も く じ
はじめに
1 事件の概要
2 事件の処理
3 たたかいの火をともし続けて
4 14年目にして
5 広がる森永追及運動
6 恒久対策案の作成
7 ひかり協会の設立
8 恒久対策案の内容
9 恒久対策案の実施状況(1)
10 恒久対策案の実施状況(2)
11 恒久対策案の実施状況(3)
12 救済の現状・四つの事例
あとがき・年表
(写真は著者の能瀬英太郎氏)
はじめに
森永ヒ素ミルク事件が発生してから、50年が巡ってきました。この事件の被害者は、僅かの例外を除き生後まもない乳幼児でした。1955年末の厚生省発表では患者11,778人、死者113人とあります。これほど多数の同年代の者が、一つの事件に遭遇するのは稀で、これもまたこの事件の特徴に数えられます。被害者たちも今年で50歳から51歳になります。事件が発生したのは1955年の夏のことです。森永乳業徳島工場で製造された粉ミルクに猛毒のヒ素が入っていました。被害者の多くが西日本に集中しているのは、工場近県に出荷されていたためです。
ミルクを飲んだのは、ものが言えない赤ちゃんだったので、よけいに被害が拡大し、原因究明にてまどりました。赤ちゃんにとっては命の糧のミルクに、猛毒が混入しているなどと誰も想像だにしませんでした。親は赤ちゃんの体調が悪くなっても、毒入りミルクを飲ませ続けました。もう少し大きかったら「おかあちゃん、ミルクをのむと腹が痛くなるの」といったかも知れません。しかし赤ちゃんはそのように思っていても、ただ泣くだけしかできません。泣くことで赤ちゃんは訴えていたのでしょう。親たちの証言によれば「夜泣きが激しくなってきた」といっていました。
それから50年の月日がたちました。多くの親たちはこの世を去り、生きていても高齢です。31年前に約一年間を費やして作った恒久対策案は、親たちの我が子を思う気持ちの結晶です。この案を完全実施すれば、すべての被害者に明るい「ひかり」がさしてくるのではないか、そんな気持ちから救済機関に「ひかり協会」と名前をつけたのでした。
現在、ひかり協会の救済事業は不十分で恒久対策案は無視されています。私たちは、恒久対策案の完全実施を関係方面に要求しています。恒久対策案の実施状況を検証し、本当の姿を多くの人に知ってもらいたいのです。実施されていない項目については、その理由はなにかと考えてみました。この作業には具体的な資料に基づいた、正確な検証を心掛けました。
この冊子の発行が、被害者救済の進展に寄与することを願っています。
1 事件の概要
1955年の6月末ころから、西日本一帯の人工栄養児に奇妙な病気がはやっていた。多くの母親の話では、それまで元気だった赤ちゃんに下痢、発熱が続くようになっていた。その上飲んだミルクをたびたび吐くのであった。医者につれていっても、はっきりしたことはわからなかった。
このことが初めて新聞に報道されたのは、8月10日の岡山の山陽新聞においてだった。この記事を書いたK記者にも赤ちゃんがいた。
記事は「赤ちゃん暑気当たり 県南部に多い 貧血起こし重患も」という見出しでかかれていた。内容は「続く猛暑で岡山県下とくに南部地区の乳幼児に暑さからくる貧血症状を呈する患者が出、重患者は生命も気遣われる者もある。ここ一週間に岡大付属病院、岡山赤十字病院に現れた重患者の中には血液の四分の一が減り、白血病のような症状を現しているものもあるので増血剤や輸血などで治療に当たっている」
K記者の担当の中には岡山赤十字病院も入っていた。8月12日にこの病院の看護婦から「最近、黒い赤ちゃんが診察を受けにきている」ということを聞いて興味をおぼえた。そこで医長に聞くと「モリニヤだと思う。ペニシリンなどの抗生物質で、死なないカビが全身にはびこって皮膚が黒くなったものだろう」といった。
K記者には生後八か月の長女がいて、そのうえ東京から弟の長女(十か月)も遊びに来ていた。どちらも人工栄養児であったが、Kの家では森永ミルクを飲んでいたので、この姪にも同じものを飲ましていた。すると二人とも下痢を始めたので、前記岡山赤十字病院の医長に診察をしてもらった。すると「別に心配はない。だが、森永ドライミルクはすぐやめて別の会社のミルクにしなさい」と言われた。「森永ミルクにヒ素が混入」と公表されたのは、これから12日後の8月24日であった。
K家の二人の赤ちゃんの下痢は、森永ミルクを飲むのをやめるとすぐにとまった。「これはおかしい」と思ったKはこれから毎日岡山赤十字病院へ取材に通うようになった。19日の朝、小児科の窓口に置いてある入院患者表を見ると、名前の上にMという文字が書いてある患者が16人もいた。この印は森永ミルクの飲用者であることがすぐに分かった。
Kは20日付朝刊に間に合うように「森永ミルクを飲んでいる乳児」と原稿に書いた。しかし朝刊には掲載されず夕刊に回され「森永ミルク」が「人工栄養児」という言葉に書き替えられていた。この理由をKは「デスクや社の都合」と書いている。これは『森永砒素ミルク闘争二十年史』の中の「「奇病」を追う」に、当時を回顧したK記者の手記から引いた。
森永ミルクがおかしいということは、もう「8月5日ころからわかっていた」ようだ。岡大医学部小児科教授の浜本英次は『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』に掲載した日記の中にそのように記述している。岡山赤十字病院の小児科の医師は、すべて浜本教授の弟子だった。その当時は岡大から医師が手伝いに行っていたので、情報はすぐ両方に伝わった。 このころに「森永ミルクの飲用中止」を発表していたら……、せめてK記者に注意を喚起した8月12日にでも発表していたら、被害はよほど少なくなっていただろう。しかし岡大医学部法医学教室で、森永ミルクの中からヒ素が検出された24日まで発表はのばされた。
1955年8月24日の朝刊各紙は、この事件を大きく報道した。朝日新聞の見出しは「人工栄養児に奇病 岡山で三人死亡」とあり、地元の山陽新聞の見出しにも「森永」という字は無かった。記事を読んでいくと森永ミルクと分かるが、見出しだけみると「人工栄養児」全体の問題と思えてしまう。このことによって、ミルクで赤ちゃんを育てている家庭をあわてさせた。赤ちゃんをつれた母親は病院につめかけ、炎天下にもかかわらず、長蛇の列が病院を取り巻いた。そのことは次の数字にも現れている。25日岡大小児科での受診患者197人中、森永ミルク飲用者でヒ素中毒新患者は94人、人工栄養児で体調不良児が大挙して押し寄せたのである。
岡山赤十字病院では入院患者が多くてベッドが不足し、廊下にまでベッドを並べて患者を収容した。25日の新聞では岡山県下で患者216人、近畿、中国、四国の各府県で百人以上が出ているという。岡山で5人の死者が出ていてさらに増える見込みだとある。患者の症状は高熱と下痢、皮膚の色が黒くなり、腹がふくれてくるのであった。翌日はさらに患者が増え全国で1463人、死者は23人に達していた。
ヒ素中毒の治療に使われたのはバルという薬であった。これは第二次大戦中にヒ素性毒ガスの解毒剤として、英国で研究発見されたものだった。 赤ちゃんが母乳の代わりに飲む粉ミルクに、猛毒のヒ素が混入するなどということは常識では考えられなかった。どんな物質に混じって入ったのか、情報は混乱した。森永ミルクの中でも徳島工場製(MF缶)だけからヒ素が検出された。そこで徳島工場からミルクに添加されている物質13種類を取り寄せて、岡大医学部で分析したがヒ素は検出されなかった。
ヒ素を検出したと発表されたのは森永徳島工場の製品であった。ヒ素は岡大へ送ってきたカルシウムなどの添加物からではなく、安定剤として使った第二リン酸ソーダに含まれていた。これはどこへも送っていなかったので、検査機関は無駄な努力を続けていたことになる。
粉ミルクの製造に安定剤が使われていることなど、業界関係者以外はしらなかったのだ。当時はまだ保冷設備のついたタンクローリーは無かったため、酪農家から集乳した原料乳を遠路工場まで運ぶ間に酸化が進んだ。品質の悪くなった牛乳を粉ミルクに加工すると、飲む時の溶解度が悪くなる。新鮮な牛乳だけを使えば問題は起きないのだ。腐敗寸前のものまで用いために、第二リン酸ソーダのような安定剤を使う必要があった。森永の発表によると、この薬品を使用し始めたのは1952年からだという。
第二リン酸ソーダには純度によって試薬1級、試薬2級、工業用にわかれている。森永徳島工場が使ったのは、選りによって工業用であった。工業用第二リン酸ソーダの用途は、ボイラーの洗浄用、殺虫剤などに使われている。その頃、徳島工場の秤は壊れていて、牛乳へ入れるのも目分量でいれたそうである。だから、製造された日付け(ロット番号)によって検出されるヒ素の量が違っていた。
ヒ素の入っていた第二リン酸ソーダは産業廃棄物から製造された。日本軽金属清水工場でボーキサイトをアルミニウムに精練するとき出たものである。これははじめ機関車の洗浄用に国鉄(現在のJR)に納入されたものだが、ヒ素が混じっているといって返品された。それが薬品業者の間を転々として、協和産業から森永徳島工場へ納入された。
この「薬品」について、日本軽金属は静岡県衛生部を通じて厚生省に、ヒ素化合物が含有しているので「毒物及び劇物取締り法」の毒物に該当するか否かの問い合わせをした。それは54年の11月のことで、厚生省から返事がきたのは、翌年の11月であった。厚生省がもっと早く適切な処置を取っていたら、ヒ素ミルク事件はおこらなかったといえる。
それにしても、食品の粉ミルクに使うのであるから、機関車の洗浄用に使うより以上の注意義務があるのは論を待たない。森永がどれほど弁解しても注意義務、安全感覚の欠如がこの事件を生んだのは明白である。
しかし刑事裁判で森永側の主張は「薬品会社にだまされた」ということであった。いままで使っていたものと、同じ薬品が納入されていると思って検査もしなかった。そうでなかったことは「信頼の原則」に反するというのであった。だが、納入した薬品会社の言い分は、品質の悪いものを納入したことを認めているのである。「森永が用途を明らかにしてくれたら、それ相当のものを納入した」という。会社は用途をしゃべらない、秘密にしたがるので聞きもしなかったといっている。
なぜ粗悪な牛乳までも原料として使用しなければならなかったか、そこには森永の上手な宣伝による粉ミルク市場の占有率拡大がある。赤ちゃんコンクールをやり、また有名人をコマーシャルに使い、55年にはついに市場占有率が50%を越すまでになった。集乳量を大手三社で比較すると50年から55年までで森永は約3.1倍増、雪印が2.0倍増、明治が2.6倍増となり森永が他を引き離している。
再び言うが新鮮な牛乳を原料に使えば、安定剤は必要ではなかった。それがよく売れたために、品質の悪い牛乳までも原料にした。MF印より高級なベータドライミルクは安全だと当時森永は宣伝していたが、最近の論文では、これもあやしいことが分かってきた。(中島貴子著『森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題』社会技術研究論文集 Vol3,90-101, Nov.2005)
この裁判は一審の徳島地裁で森永側無罪の判決(63年10月25日)があった。控訴審では高松高裁で原判決破棄、差戻し(66年3月31日)上告審では最高裁で上告棄却(69年2月27日)。徳島地裁での差戻審は、森永徳島工場の製造課長に禁固三年の判決(73年11月28日)がありようやく確定した。起訴から18年間もかかり、裁判史のなかでも10指にはいる長期裁判であった。
2 事件の処理
被害をうけた家族は団結して、森永乳業等と交渉しようとする動きが8月27日から始まった。「森永ドライミルクに依る被災者家族中毒対策同盟趣意書」を岡崎哲夫が書いた。彼の長女は岡山赤十字病院へ入院して治療を受けていた。「趣意書」は同じ階に子供を入院させている親たちが手分けして、各階の患者家族へ配って回った。「趣意書」を読んだ親たちは即座に賛成して、団結して闘うことを表明した。
次の日にこのことが新聞報道されると、岡大病院、倉敷中央病院でも同盟が結成された。31日にはこれら三つの病院の代表が集まり、9月3日に総決起大会を開くことで合意した。総決起大会では岡山県砒素中毒被災者同盟の結成を決議し、初代委員長に岡崎哲夫が選出された。この大会で選出された委員は、森永の岡山駐在員事務所を訪ねて同盟結成の通告をした。今後、会社と協議し速やかな事件処理をしたいと申入れをした。 9月6日、本社役員との団体交渉で森永は、患者急増で会社経理の危機的状況を理由に、治療費、入院見舞金1万円、通院患者に3千円の支払いを約束したにとどまった。
岡山での同盟結成を契機に、全国各地で被害家族の組織化の機運が高まった。9月18日には9府県の代表30人が参加して、岡山市で森永ミルク被災者同盟全国協議会(以下全協)の発足集会が開催された。各地からは入通院にかかる費用による困窮、後遺症の不安、森永の不誠実な対応、費用支払いの地域による不平等などが報告された。
10月3日から3日間全協と森永が交渉した結果、患者一人につき一日430円の付添費、通院に要した交通費の実費、通院の諸費用として一日に150円支払う。通院患者への見舞金3千円に2千円を追加する。患者一人につきミルク代の払戻しの意味で別のミルク3缶を贈るなどが決まった。次回10月23日の交渉では、森永から死者に対する弔慰金の試案を提出するとの回答があった。
ところが10月17日になって森永は交渉延期を通告してきた。10月22日の新聞に「森永ミルク中毒の補償問題について森永からも何分の指示を得たいという申出があったので、厚生省では森永に対し、中立の立場にある有識者の委員会を作って解決を一任することを勧告した。」という発表が厚生省からあった。この委員会のメンバーは内海丁三、小山武夫、田辺繁子、正木亮、山崎佐の五人であった。五人は森永が勧告に絶対に従うことを条件に、就任を受託し森永もこれを了承した。
森永が全協にした説明はこれとは違っていた。「突然に五人委員会ができて、我々は厚生省から弔慰金その他一切の問題について今後全協とは交渉するなといわれたので、これ以上の交渉はしない」といった。全協は五人委員会は認めないという決議をした。
12月15日、五人委員会の意見書が発表された。問題は被害者に対する補償と後遺症対策であった。その要点をまとめると次のようになる。
1 死者にたいする補償は25万円。
2 生存者は軽症と重症を問わず一律1万円。
3 後遺症の心配はほとんどない。
4 森永が入院患者にしている追加約束の限度は2千円までとする。
5 森永が今までに払った見舞金はこの金額から差し引かれる。
この結論は今まで森永が払った金額に権威付けをして、それ以上の補償をしないことを、お上の力を借りて言ったまでのことである。この結論に導くのに約三万字を使っているのだ。後遺症についての結論を全部引用すると、つぎのようになる。
「これ等各専門医家の意見を総合すると、「本件の中毒症には、概ね、ほとんど後遺症は心配する必要はないといってよかろう。今なお引続き治療を受けているものは、後遺症ではなくして原病の継続である」ということであったので、本委員会は本件の補償基準をきめるについては、第六章結論、第一節総説(3)に記述する外は特に後遺症に対する補償をきめないことにした。」これが全部で、僅か170字で最も重要なことを片付けた。
この意見書に対して、当時の新聞に批判でも載っているかと探したが、無かった。生後一歳ほどの赤ちゃんに「原病」とはどんなものをいうのだろうか。この意見書の内容は、刑事裁判での森永の主張と同じものである。それは森永を薬品会社にだまされた被害者にしあげることであった。これが「公正・中立」と称して厚生省の委嘱で作られた委員会の正体であった。 発表の翌日には被害者のもとへ、意見書全文と「意見書の内容を直ちに実施する」と書いた森永の通告が送付された。そして次の日に、全入院者と通院者に見舞金の残額が現金書留で送られてきた。ご丁寧にもすぐ投函できるように、官製はがきに印刷された領収書も同封されていた。
全協は五人委員会の結論とは関係なく死者50万円、定期検診制度の確立、砒素中毒症の研究機関の設置、今後六年間重症、中症患者に毎月2千円の健康管理費の支給等の要求をした。
これらの要求がいれられない場合は、不買運動等の実力行使に訴えるとした。森永は「意見書」を妥当なものと考えるので、要求には応じられない、定期検診と研究機関については具体案を作ってみると回答した。この回答を不満として、全協は森永製品の不買運動を開始した。国鉄(現在のJR)など被害者を多くかかえた職場ではこれに協力した。国鉄の物資部からは森永製品は追放されたが、一般大衆にまで運動は浸透せず、森永に打撃を与えるまでにはいたらなかった。
森永は被害者側の運動を混乱させるための分裂工作として、役員への誹謗中傷、買収などあらゆることをした。その手法からは一方的な過失で多数の死亡者をだした加害企業として、一片の悔悟心も見られない。
世界で発生したヒ素中毒事件は数件あるが、小児のそれは皆無であった。厚生省は10月6日付けで日本医師会に依頼し小児保健学会に小委員会を設け「診断基準」を作成させた。それによると「治癒判定基準」として①必須条件、イ 一般症状が完全に消失していること。ロ 血液像が略正常に復していること。ハ 肝臓が軟らかくなり大きさも二横指以下に縮少していること。②付帯条件、イ 心電図が正常に復していない者は、以後の管理を要す。ロ 眼症状が正常に復していない者は、以後の管理を要す。ハ 色素沈着は多少残存しても顧慮するにはおよばない。ニ 中毒者で以上の基準外にあると思われる者は、特に専門的な検討により決定すること。この基準で大半の患者は全快を申し渡されたが後のち大問題となる。
依然として後遺症の不安は拭えず56年3月末、全協の役員は事態の打開のため、森永と交渉を重ね、厚生省へも陳情した。その結果、厚生省は後遺症対策として関係都道府県へ精密検診実施について通達をだした。
(1)通入院等により現在治療中の患者
(2)回復者であっても予後後遺症等につき不安を感じている者
を各科を具備した医療機関をあっせんし、中毒が原因と考えられれば治療を受けるよう指導する。その費用は森永が負担する、というものである。 その頃になると全協の闘争資金は底をついていた。各県本部からも妥協を探るように要請がきていた。役員たちは、残念だが闘いの幕を引く潮時として、これが最後の時との判断をかためた。
4月9日に前記内容(1)(2)を骨子として、森永との間で次のような妥協が成立した。精密検診以外では「一周忌香華料、研究機関等の件」として
1 会社は死亡者に一周忌香華料並びに法要諸費金三万円を贈呈する。
2 会社は研究助成の機関としての公益法人を設立する。
3 全被災者にベータードライミルク(1ポンド入)2缶を贈呈する。
親たちの心配は、ヒ素中毒の後遺症であった。岡山同盟が会員にアンケート調査をしたところ、56年2月の段階で137名中全快と回答をした人は18名であった。森永は56年1月に全家族に通知をだした。「1月末をもって各病院での治療は打ち切る。不安のある人は岡山大学病院小児科で診て貰い、そこで中毒症ないし中毒に関係ありと認められれば会社負担で治療してもらう」というものだった。岡大病院以外の病院での証明は受付ないというが、岡大病院では2、3人を除いてみんなヒ素中毒は全快といわれた。しかし肝臓肥大、貧血、皮膚病、眼病、下痢などは残った。これらは「原病」の継続であり治療費は自己負担になってしまった。
森永と岡山県の関係の強さを示すものとして、全国で最初に「赤ちゃんコンクール」が行われたのは岡山県だった。『森永乳業五十年史』の中の座談会で森永の社員は、岡大小児科の浜本教授の世話になったこと、山陽新聞が好意的だったこと、県庁、保健所などの公的機関が協力的だったことを述べている。そのおかげで今まで森永のシェアーは20%しかなかったのに、以後70%を越すまでになった。岡山での被害が大きかった理由は、これら産学官と地元新聞の癒着が原因かもしれない。
3 たたかいの火をともし続けて
56年4月22日の大会で8か月にわたる全協の闘いに終止符がうたれた。それより2か月遅れて、岡山同盟も解散することになった。しかし、新しく「岡山県森永ミルク中毒の子供を守る会」(以下=守る会)をつくり子供を見守って行こうとする派と、民事裁判に訴えようとする派に進路は分かれた。
その年以後、守る会の運動は新聞などで報道されることもなく、地道に続けられていった。いったん闘いの矛を収めると、再びその炎を燃え上がらせることの困難を、事務局長に就任した岡崎哲夫は痛感していた。そこで彼がとった戦術は、文書による陳情、要望、抗議などの連発であった。以後13年間で彼は317通の文書を各方面に送った。その年に岡崎が発送した文書は67通に達したが、大きく分けると3種類になる。
一つは後遺症を早期治療によってくいとめるため、関係機関に検診をもとめるものであった。その二は森永が約束した「研究機関」を、被害者のためのものにする要求であった。その三は守る会会員に対して、闘いの意義付けなどを説明することであった。そのために彼はガリ版に向かって毎日のように鉄筆を走らせた。
岡崎たちは被害児の精密検診を求めて陳情書を出すとともに、連日のように県当局にかけあった。その結果、今までとかく親たちに不人気だった岡大病院一本が、県下10病院に拡大され6月から9月にわたって実施されることになった。一斉検診実施が公表されると岡山県下に2千人いる被害者のうち、千五百人が受診すると申し出てきた。
この時の検診に使われたのが前章でもふれた小児保健学会小委員会が作成した「精密検診の基準」であった。それは次のようなものだった。
1 砒素中毒者としての一般症状が消失しているかどうか。
2 血液像が正常に復しているかどうか。
ザーリー70%以上、赤血球 350万前後、白血球 6千前後=一応の標準
3 肝臓は軟かく二横指以下に縮少しているかどうか。
なお、前記三条件以外の検診を必要とする症状が認められる場合は、その専門科へ廻診のこと。また原則として右三条件について検診を行うが、砒素中毒者としての症状が認められぬ場合、被災者側の不安がなくなり、保護者が納得すれば、2、3の検診は省略し得ること。
1の一般症状とは何かについて、県衛生部すら分かっていなかった。一応は外見的症状と解釈され、それが普通の状態になっていれば、親の納得を得て2、3は省略できる。検診の結果第二次検診に回されたものが数十人いたが、岡大病院での再検診では全員全快になってしまった。
この診断基準を作成したのは小児保健学会の小委員会だが、通称「六人委員会」と称されている。六人とは会頭に西沢義人(阪大教授)、委員には浜本英次(岡大教授)、北村義男(徳大教授)、平田美穂(兵庫医大教授)、中村恒男(京都府立医大教授)、吉田邦男(奈良医大教授)である。 五人委員会で後遺症問題について証言しているのは、医学者としては西沢義人、浜本英次、元東大小児科教授栗山重信の三人だった。この人たちの意見で「後遺症はほとんど心配する必要はないといってよい」という結論が導きだされたのである。
守る会は、結成いらい森永に要求してきたのは各府県に二つ以上の指定医療研究機関を置くこと。森永が作ろうとしている公益法人にヒ素中毒の研究部門を置く等のことであった。しかし森永の設立した財団法人は「森永奉仕会」と名付けられ、設立の趣旨は「乳幼児の栄養、とくに牛乳、乳製品ならびにこれに関する育児栄養品の品質改善に関する調査、研究の進歩を図り、もって公衆衛生の向上に寄与する」というものであった。そのなかにはヒ素中毒の研究はなく、守る会の要求は無視されてしまった。
この会には五人委員会のメンバーが三人ふくまれていた。理事長の小山武夫と監事の山崎佐、内海丁三であった。そのほか六人委員会の浜本英次、と西沢義人が評議員として加わっていた。全評議員27名中、国立大学医学部の教授が12名も名前を連ねていたのだ。
この会の趣旨にある「寄与」とは、主に日本小児科学会会員の研究に奨励金をだすことであった。事業には(1)各個研究奨励金、(2)総合研究奨励金、(3)森永奉仕会賞の三つがあった。そのうち(1)の合計件数を56年設立時から66年まででみると、413件のうち日本小児科学会会員の受けたものが199件、金額にすると1858万円であった。
前述の資金をもらった六人委員会の委員をあげれば、浜本英次2件203万円、中村恒男1件220万円、平田美穂2件15万円、西沢義人1件10万円となっている。その他の奨励金と森永奉仕会賞をもらった医師の所属は、国立大学医学部小児科、有名私立大医学部小児科で、北から南までまんべんなく配っているのが印象的である。これだけの「ヒ素中毒」包囲網を敷いておけば、我が子をヒ素中毒の後遺症ではないかと疑って小児科で受診しても、誰も「そうだ」とは言ってくれない。
このような状況のなかで、守る会が運動を展開して行くのは並大抵ではない。その上「正義の味方」マスコミも、宣伝費を多く使って派手に広告をやる森永の手前沈黙してしまった。守る会会員が後遺症を訴えて投書しても、掲載されることはなかったという。
守る会に参加した親たちは、一斉検診の結果要治療児となった全員について、その後の治療を求めた。要求実現のため岡山県衛生部の前に座り込み、森永に治療を約束させた。このように団結して要求すれば、治療費の支払いを受けられる。そこで解散した他県の元同盟役員に、守る会を作って運動を再開するように要請文を送ったが、同調者は現れなかった。
岡崎は57年5月に『森永ミルク事件史』を出版した。この本で事件の発生から被災者同盟の結成、全国組織「全協」の結成、森永との交渉等約一年間の運動を総括した。ここで岡崎が繰り返し強調するのは、加害企業として罪の意識もなく、悪辣な手段で運動を攪乱した森永のことである。
守る会の運動も年々参加する会員が減少していった。訴える機会も減り毎年参加している日本母親大会のみになった。60年8月東京で開催された第6回大会に参加したYさんの日記から要約する。
岡山から参加したのは四人で大会は3日間あった。活動資金も少なく片道運賃だけ持って、野宿する覚悟でテントと飯盒炊飯するためになま米を持参した。四人は食費を節約するためパンと牛乳で食事をすませた。ヒ素中毒の後遺症で今も苦しんでいるという訴えは、参加者に大きな衝撃を与えた。多くの報道機関が取材に来ていたが、記事にしたのは『日本福祉新聞』と『アサヒ芸能』だけであった。
日本母親大会で訴えたことがきっかけで、高田なほ子参議院議員の紹介で中山まさ厚生大臣に請願した。4日目には旅館に宿泊する金が無くなり、目黒警察署へ1泊保護してもらった。翌朝、森永社長大野勇宅を訪問するが留守で森永本社を訪ねた。そこでも社長は留守ということで代理のものと話し、昼食をご馳走になり久し振りに食べる御飯に感動した。1週間の上京中食事も満足にせず、東奔西走したため帰岡後体調を崩し寝込んだ。
63年10月徳島地裁は森永無罪の判決をくだし、この時は新聞も大きく報道した。この判決は岡山の民事裁判にも影響を与え、一人3万円の和解金で手をうった。
65年頃には、守る会の総会への参加者も少人数となり、岡崎宅で開催されていた。10周年を区切りとして、解散総会を開くことになった。森永はそのことを知って喜び、解散記念品をもって来た。しかし重症児を持つ親たちは納得せず、守る会の存続を強硬に主張した。その結果守る会は存続、検診、治療を求める決議を採択して関係機関に訴えることにした。
翌66年3月、高松高裁は徳島地裁の判決を破棄して差戻した。この年の11月に遠迫克己岡山同仁病院長を会長として「岡山薬害対策協議会」が結成された。サリドマイドの被害児、森永ヒ素ミルク中毒の被害児たちを救済しようという目的で、岡大医学部衛生学教室教授大平昌彦も加わっていた。遠迫医師は守る会会員から話しを聞き、一斉検診の必要性を強く感じた。同仁病院は設備が不十分なので、水島協同病院を紹介して行った。 翌年の3月から9月にかけて35名の被害児が検診を受けた。その結果皮膚、眼、耳、歯、肝臓、腎臓、知能、発育、骨、血液等に異常がみつかった。内臓に異常がなかったのは僅か二人で、一人の被害児が複数の異常をかかえていた。岡崎のもとへは岡大医学部衛生学教室から調査の協力申し出があり、大阪大学にも同様の動きがあることが伝わってきていた。
4 十四年目にして
森永は、高松高裁の判決を不服として最高裁へ上告していたが、69年2月27日上告棄却徳島地裁へ差戻しの判決があった。
その年の春、四国森永牛乳販売株式会社取締役の磯部克己が守る会の岡崎の自宅を訪れた。突然のことで岡崎は驚いたが、磯部は大阪転勤の挨拶といった。守る会結成10年目に解散総会と聞き、喜んで記念品をもってきたのが磯部だった。
そのころ大阪では、大阪大学の丸山教授を中心として被害児の追跡調査が進んでいるということが、岡崎の耳にも入っていた。磯部の訪問はこれを察知し、動向を探りに来たと岡崎は思った。
その年の守る会総会は8月24日の日曜日に開催された。毎年の総会は事件発生の年「森永ミルクにヒ素混入」と公表された日、即ち8月24日に近い日曜日に開くことになっていた。それがこの年はちょうど同じ日に開かれるとは何かの因縁かもしれない、と岡崎は思った。総会では、大阪の動きについては沈黙していた。ただ、「14年間の苦しみの蓄積が爆発することもありうる。私たち少数のものが全国の核となり、その先導力となる覚悟をいまから作って行かねばならない」とそれとなく岡崎は触れておいた。
同年10月17日に朝日新聞大阪本社社会部の為田と新妻の二人の記者が岡崎宅を訪れた。前夜電話連絡があり、岡崎は事件発生から今日までの資料を揃えて待っていたのだ。
「十四年目の訪問と題する大阪大学の丸山教授たちの報告ができた。これが事実とすれば、日本のマスコミは十四年間森永の被害者を裏切って来たことになる。私たちは人道と良心にかけて事実を公表する義務がある」と二人は言った。
「私たちは十四年間訴え続けてきた。しかし、政府も医者も、そして貴方がた朝日新聞を含む全マスコミが私たちの声を黙殺してきた。この事件の本質と守る会の闘いの歴史を理解した上で、発表か否かを決めてもらいたい。もし事実を報道するにしても、守る会のことは私たちの機関決定があるまでは伏せておいてもらいたい」と岡崎は言った。
朝日新聞が丸山たちの追跡調査をスクープすれば、全国の被害者家族と国民に大きな衝撃をあたえるだろう。その結果大挙して守る会への参加申込となることは目にみえている。そうなると守る会は被災者同盟と同じで、統制のとれぬ集団となってしまう。岡崎は、十四年前の混乱を再現することだけは避けねばならないと思った。
取材は二日間にわたって行われ、二人は疑問点を納得がいくまで質問してきた。最後は守る会が行った自主検診のデータについてだった。丸山たちの行った追跡調査を裏付けるこのような検診を、二年も前にすでに行っていたことが納得いかない様子であった。そこで、検診をした病院で確かめたいので、病院名を教えてくれといった。しかし岡崎は、病院との約束を理由に拒否し「信じる信じないはそちらの自由です」とあくまで突っぱねた。
この時の取材をした新妻義輔記者の手記が『森永砒素ミルク闘争二十年史』にある。69年の秋、新妻は大阪府立公衆衛生研究所で、近く岡山市で開かれる公衆衛生学会でおもしろい発表があることを聞いた。学会のレジメをみると「森永ヒ素ミルク…十四年目の訪問」とあったが、この事件のことを彼は知らなかった。
阪大の丸山教授の研究室へ行って、学会で発表する追跡調査のことを聞きたいと申し入れた。丸山は「だめですね」と言い「朝日新聞をあまり信用していないんですよ」とまでいわれた。その夜、丸山の自宅まで行き資料を見せてくれと頼んだが断られた。三日間、丸山の研究室と自宅に通った。三日目の午後「君、この問題、書き続ける覚悟はあるの。新聞はね、一度だけ大きくセンセーショナルに取り上げてそれで終り、というのが多い。花火のように一発打ち上げて、それでやめることは、患者を売りものにすることだ」と言ったのだ。新妻はうなずいて、どうなるかわからないが、とにかくぶつかってみようと思った。
新妻と為田は丸山たちの「十四年目の訪問」を確かめるために岡崎に取材し、岡山支局の記者たちは重症の被害児のもとへ取材に走っていた。その発端となったのが、大阪府立公衆衛生研究所で聞いた一言だったといえる。
10月19日付の朝日新聞は「森永ヒ素ミルク事件」の被害者のことで埋まっていた。丸山報告の全文が掲載されたが、守る会のことは「名前は伏せ」られていた。その日の午後、岡山大学医学部衛生学教室の太田講師から連絡があった。10月30日、岡山市で開催される日本公衆衛生学会に出席するために丸山が来岡する。その前日に守る会会員との会見を準備したいというものであった。
守る会の会員からも次々と岡崎のもとへ電話が掛かってきた。皆の声は興奮していて、今後の行動について岡崎の指図を求めるものであった。伏せられていた守る会の名前が、被害者の間に広まるのは時間の問題だった。数日後になると全国の被害者から、岡崎宅へ問合わせの電話が終日掛かってくるようになった。
朝日新聞の記事がきっかけとなって、全マスコミはその日を境に今までの沈黙を裏返したような報道競争に突入した。「皆で書けば怖くない」ということの見本のようになった。
岡崎は日本公衆衛生学会が開催されるまでの間が、今後の守る会の運命をきめると踏んでいた。それまでに今後の方針をしっかり決めてかからないと、事件発生当時の被災者同盟と同じ轍を踏むことになると思っていた。それには信頼して今後共に闘っていける、元の同志に参加を求めることであった。
黒川克己、北村藤一、内田順一たちが岡崎の要請に応じて指導部に加わることに賛成した。それに苦しい中をともに凌いできた、岡山の守る会会員たちと手をとりあって行きたいと構想を固めた。
岡山県の東端に住む守る会会員南正和も、重症の被害児を抱えていた。彼は教員をしながら岡崎たちと苦しい中を闘って来た。岡崎から、丸山教授を囲む会を開くので至急きてほしいとの電話で、岡崎宅に急いでかけつけた。丸山は集まった親たちの訴えを、うなずきながら熱心に聞いていた。親たちは苦しかった胸の内を話し、丸山たちに席を立ついとまを与えなかった。丸山は「医学界の反省の上に立って全力を尽くす」と言って岡崎宅をあとにした。
夕方から4時間余り話をして散会した。残った守る会の会員は岡崎宅に泊まり、明日の公衆衛生学会を傍聴する予定であった。しかし新聞記者が一人まだ残っていた。「守る会の皆さんの真剣な様子を見て、言わざるを得なくなった。明日の学会には丸山報告に対抗してそれを打ち消しに、西沢教授がくるのです。西沢には森永がついている。丸山報告を手放しで喜んでいるのは危ない」と言った。それに備えてすぐ横断幕を作り「阪大・西沢教授(森永顧問)よ!ふたたび、森永の手先になるのか」と南は震える手で書いた。 翌日の第27回日本公衆衛生学会は丸山の報告をめぐって白熱した議論が展開された。
「これだけ重要な発表をまとめた研究に、ただ一人の医師も入っていなのは問題です」と西沢は言い、この結果については「人間としては反省するが、医師としては責任を感じない」ともいったのだ。「この結果だけで後遺症とは断定できないけれど、少なくとも今回の検診で分かったことは、被害児の中に正常でない者が多い事だ」と二年前に検診の機会をつくり協力した遠迫は、集団検診の必要性を訴えた。「今まで森永中毒事件について関係することが、医者の間ではいかにタブーになっていたか皆さん知っていたでしょう。どこのどの医者がこの問題解決に協力したか」と丸山は、彼の指導で追跡調査をやった養護教諭たちの仕事を評価した。
突然、「被害者の生の声を聞きたい」と言う提案があった。岡崎に「たのむ」といわれた南は、重症児の我が子の手を引いて演壇の中央へすすんだ。心にはなんの準備もなかった。南は何度か絶句しながら、いままで受けた苦難の歴史を語った。最後までは涙で喋れず、回りの人の顔も見えなくなった。関西医大の東田教授が「私…今…感動しました。この学会で問題にすることは、私たちの同僚が犯した誤りをどう取り戻すかです」と南の後をひきとって言った。
5 広がる森永追及運動
守る会の存在が被害者の間に広まると、連日多くの手紙が殺到した。手紙には千円から一万円までのカンパが同封されていた。今日まで守る会を作って、闘ってきたことへの感謝の言葉も書かれていた。岡崎はそれらに返事を書くのに、毎日明け方までかかった。
旧同盟の弱点を排除して闘うため、守る会は今後の方針として、全国単一組織とし、岡山が全国の核となって闘うことを指導部の間で合意した。
第一回の守る会全国総会は69年11月30日に岡山市で開催され、決定されたのは次のような方針だった。
1、守る会は金を取る運動はしない。
2、会員は、支部、地区、班組織の結成と医師をはじめ協力支援団体の獲得に全力をあげる。
3、それができるまで一年間、森永とは一切交渉しない。
4、これらの方針に反する府県支部組織は解散させる。
5、以上の方針が気に入らない時は別組織をつくってもよい。
このような「魅力のない」会に参加してくる人は一応信じてもよいと岡崎は思った。
全国各都府県支部の結成は69年11月の岡山に始まり、徳島県、大阪府、70年1月奈良県、2月広島県、香川県、8月京都府、9月兵庫県、71年4月九州、9月山口県、12月愛媛県、72年3月大分県、6月和歌山県、8月島根県、高知県、9月東京都、73年1月滋賀県と相次いだ。
支援組織も各府県で結成されていったが、大きく分けて二つの系列になる。その一つは「対策会議」系で、最初の結成は70年5月の奈良県だった。奈良医大、同県民医連など医学・医療関係者が中心となっていた。特徴として対策会議は労働組合など団体が集まって作られた、いってみれば大人の組織だった。9月に岡山県、10月には京都府、広島県、71年2月大阪府、72年9月兵庫県、12月香川県、73年1月和歌山県、4月愛媛県、7月には高知県、徳島県で結成された。73年8月には「全国森永ミルク中毒対策会議連絡協議会」という全国組織に発展した。
もう一つは「森永告発」系の組織で、これは個人として参加し、比較的若い大学生、サラリーマンなどが多かった。手本としたのは当時全国的に活動していた「水俣告発」型の市民運動であった。
71年3月に広島で結成されたのが「森永ミルク中毒被害者を支援する会」で、4月には岡山で「砒素ミルク製造会社「森永」とその犯罪を支えた一切を告発する会」(岡山・森永告発)が結成された。その年8月には13都府県から代表が岡山に集まって、全国連絡会議が結成され、事務局を岡山市に置くこととなった。
岡山・森永告発は、事件を広く国民に知らせることを運動の主目的に、事件史を発行することからはじめた。主な出版物は『砒素ミルク1』(71年6月刊)=これまでの事件とその後の推移をとりあげたものである。『砒素ミルク2』(73年8月刊)=事件直後に書かれた『森永ミルク事件史』の復刻と、その他の資料をいれた。『砒素ミルク3』(74年5月刊)=岡山で行われた「岡山県粉乳砒素中毒調査委員会」の会議メモを文書化したもの、などである。 その他、徳島地裁で森永側に第一審無罪判決が下されたが、その判決文を印刷して実費でくばった。判決文は読みたくても手に入れにくく、発売して数日のうちに売り切れてしまった。
森永告発の特徴は若さと実行力であり、会の規約などでの制約もなく、個人の責任で自由に運動を展開した。その中でも森永製品の不買運動に力を入れて、不買シール、不買ステッカーなどを制作して売り、運動資金にした。不買運動の手段は個人対個人の話し合いを重視し、不買運動をなぜするかという原点から相手を説得した。これは非能率的に見えて一番効果のある方法であった。これで不買運動を広げるとともに、賛同して運動に加わる人をも獲得した。
被害者の運動が事件発生当時と決定的に違ったことは、このように回わりの市民と共同で闘う態勢がとれたことである。
一方森永は「森永ヒ素ミルク中毒患者に後遺症」との丸山報告が出ると、すぐ厚生省へ調査・検診の依頼をした。厚生省は11月26日に六人委員会はなお存在していると、委員会のメンバーを集めて協議させ「後遺症は有り得ないが、不安に思っている親たちを安心させるために地域を限って一斉検診をする必要がある」との結論を出させた。その地域が岡山県で、守る会は自主検診に協力した医師に被害者名簿などを提供すること。そしてこれらの医師たちを中心に検診を行い、委員会は公開にすることなどを厚生省、岡山県衛生部に申し入れた。しかし守る会の申し入れはことごとく拒否されたため、この「官製検診」への参加をボイコットした。
森永は厚生省の後だての検診で14年前の再現をねらったが、守る会の意向を受入れた自主検診が各地で行われ、それらは皆「後遺症の疑いがある」ことを証明した。岡山県をモデルケースとして実施した「官製検診」は72年12月に結果が発表された。
それには「16年前、特異な砒素中毒の症状を共有した集団であったが、現時点では受診者の間に当時の残像と思われる皮膚の色素異常を除けば特徴的な共通点は指摘できなかった」という「まとめ」をだした。この結論こそ森永が待ち望んでいたものであったが、自主検診の結果を覆すほどの影響力はなかった。
丸山報告から約一年、守る会の会員は800人に達していた。そろそろ森永と交渉を始めてもいいのではないか、という声が役員の間からも出始めていた。70年11月27日第二回総評公害対策全国連絡会議に守る会も招待されて上京した。大会二日目は「公害企業との交渉」という日程で守る会も森永本社を訪れた。
森永は渉外本部まで設けて、守る会からの交渉申入れが来るのを待っていたらしい。しかし「守る会は総評の顔を立てるために来たので、交渉をしに来たのではない」と言った。守る会が交渉申入れをしないので、森永の方から申し入れてきた。そこで交渉開始の条件として、守る会の指定する場所と日時に森永が出てくることを要求し、森永はこれに応じた。
第一回の森永との交渉を12月12日に岡山市で開催することを全国理事会で決定し、森永へも通知した。その前日岡崎へ森永から電話があり、是非会いたいと言ってきた。「忙しいから」と断ると5分でも10分でもというので、黒川と一緒に会った。森永は「明日の会議は双方が信頼できる議長を置き、出席者は双方同数、傍聴者はマスコミに限ること」との申入れだった。二人は「それは明日の議題にすればいい、もしすぐ回答をというのならノーである。それが気に入らなければ森永は交渉を拒否すればいい」と答えた。森永の魂胆は同盟時代のボス交渉、密室取引の再現であった。
第一回交渉で守る会が森永に要求したのは次のようなことだった。
A 全被害者の当面の要求として会社側に申し入れる事項
1 緊急に介護を要する被害児に対して直ちに救済措置を取れ。
2 死亡被害児の遺族に誠意ある措置を取れ。
3 被害者負担の自主検診費用の即時無条件弁済。
4 協力医療陣負担の研究、調査、検診費等の即時無条件弁済。
5 今後全被害児への検診、治療、養護等の恒久的措置の確立。
B 前記のことを速やかに解決し、全被害児およびその家族の一生の不安をなくすため「守る会」の提案する事項
1 今後の話し合いは「本部交渉」と「現地交渉」の二本立とす。
2 「本部交渉」は原則毎月一回開催、守る会の都合を優先す。
3 「現地交渉」は各府県支部と会社で必要に応じて開く。
守る会要求のAについては、次回の交渉で回答、Bは承認した。 以後毎月一回のペースで本部交渉が継続されるが、交渉は公開で誰でも傍聴することができた。その中で森永が行政と一体であることを窺わせる発言は暫々あった。森永のいう自社の立場とは「厚生省の監督を受けている弊社は、一存で事を処理することは許されず、すべて岡山県を通じてことを運ばなくてはなりません」と言い、前記Aの3、4の費用支払要求については「岡山県以外は厚生省から指示を受けていないので厚生省をさしおき交渉できぬ」と言った。
6 恒久対策案の作成
第二回の本部交渉は71年1月10日岡山市で行われた。森永は前回に守る会から出されていた要求に対する回答をした。それによると「1各要求については対策会議と相談したい。現段階では厚生省と京都府の行っている精密検診の結果を待って善処したい。A1の緊急に介護を要するとはどんな病名か。2死亡した遺族へはその都度弔意を表しているが、多くの場合拒否されている。専門家は中毒と関係ないといっている。3自主検診費用は弁済したいが、県衛生部へ話してもらいたい」というものであった。
このように本部交渉は月一回のペースで開かれていたが、7月の第八回目にして、森永は「交渉中断」の声明文を読み上げて退席していった。これまでに守る会が獲得したものは、今まで支払った治療費の自己負担分を森永が負担する、重度の人の介護料月額2万円を支払う等であった。その他重要問題になると、森永は守る会が要求している「恒久措置案」の中で答えるといって回答を留保した。
丸山報告が発表されて以来、この問題は細大もらさず毎日のように新聞に報道されていた。とりわけ森永と守る会の本部交渉には、毎回大勢の記者が取材につめかけていた。守る会は森永の企業責任を追及し、責任を認めた上での恒久措置をとれと要求した。森永はそれに対して、はっきりと拒否もしないが、認めることもしなかった。森永は毎回、新聞発表を意識した答弁をして、それも行詰まって交渉中断になった。
交渉中断という作戦をとったことで、世論は森永にたいして厳しいものになった。守る会は格好な攻撃材料を手に入れ、支援団体の訴える不買運動は、社会に抵抗なく浸透する状況を森永が作ってしまった。
10月28日に本部交渉は再開された。中断は僅か三か月間で、森永は再びテーブルにつかざるを得なくなった。中断中にも森永は守る会役員に対して、たびたび再開を打診してきていた。交渉再開の条件は「森永恒久措置案」の提示であった。状況を打開するため森永は「恒久措置案」の作成を急いだ。
この頃の新聞報道の傾向を調べてみた。72年の1月から10月末まで朝日、毎日、読売、山陽の四紙が森永ヒ素ミルク事件関連の記事を掲載した回数は次のようになる。これは全国版、岡山版の合計数であり、1月から10月までの前記順番による四紙の掲載回数である。これを見れば、当時の社会の注目度が分るであろう。
1月(8.5.11.4)2月(3.5.5.2)3月(4.4.3.1)4月(5.6.6.3)5月(3.1.4.0)6月(7.4.7.3)7月(7.6.10.1)8月(16.21.16.12)9月(5.8.9.5)10月(10.7.10.7)
12月19日に森永は下記の「恒久措置案」を守る会に提出した。
趣旨 粉乳中毒事件に際して、会社は、国及び府県の方針に従って措置いたしましたが、当時の患者で今後、健康がすぐれずお困りの方に対し、因果関係を問わず、道義責任を全うするため下記の事業を行いたいと存じます。
1.健康管理
(1)健康診断
① 希望する者は一年間の間に健康診断をうける。
② この診断で医師が必要があるとした者は継続して診断をうける。
③ 費用は会社が負担する。医師の特別指示により必要のある場合の費用負担は機関が善処する。
④ その他の健康診断は、その都度機関が定める。
(2)治療
① 健康診断時に医師が必要と指示した者は治療を受けられる。
② 治療費は保健の本人負担分を会社が負担する。
③ 健康診断時以外に医師が治療の必要とした者は②に準ずる。
(3)交通費
健康診断、治療に必要な交通費は別の基準で会社が負担する。
(4)病院・診療所
本人居住の医療圏内とし、健康診断は可能な院所でする。
(5)健診票・治療票
① 健康診断は別に定める健診票(統一様式)によって行う。
② 治療は別に定める治療票(統一様式)によって行う。
③ 機関は健診・治療をうける者に健診票、治療票を交付する。
④ 健診票、治療票は本人が保管し、機関がその写しを保管する。
(6)費用の支払い
① 会社は機関を通じて費用(1の(1)の③)を受診者に支払う。
② 会社は機関を通じて費用の本人負担分を(1の(2)の②)社会保険診療報酬支払基金に支払う。
③ 会社は機関を通じて、健診、治療の交通費を本人に支払う。
2.援護
慢性の重い症状(精神、身体)で日常生活に著しい制限がある方に機関が年金を支払う。対象者その他は機関が定める。
3.機関
健康診断、治療、援護に関する業務を行うため機関を設ける。
① 会社は機関に所定の資金を提供する。
② 機関の運営については別に定める。
③ 機関の役員は、被害者側、学識経験者、会社側で構成する。
④ 機関は事務局を○○○に置く。
⑤ 機関は業務を円滑にするため各府県に世話人を委嘱する。
4.その他
① 上記決定事項については5年後に改めて協議する。
② この事業を円滑に推進するために国、自治体、医師会、諸団体、その他のご協力をお願いする。
以上が「森永恒久措置案」のほぼ全文の要約である。これが出されると守る会は役員会を開いて検討し、翌72年2月「断固として全面拒否」を決定した。同時に守る会は「1同案は今後交渉の素材にしない、させない闘いを行う。2会社側に基本的に撤回させる。3森永に100%の企業責任があり、厚生省には100%の行政責任があることを明らかにする。4被害者による被害者のための被害者の恒久対策案をつくる」などの決定をした。
守る会では森永に「恒久措置」の確立を要求していたが、内容には期待をしていなかった。出てくる案によって、森永の「加害責任」の認識度を計るくらいの気持ちだった。結局は被害児を持つ親が、子供の「からだを元に戻す」案を作らねばならないと思っていた。 その討論材料としてはすでに、岡山大学医学部衛生学教室の青山英康助教授が「森永ヒ素ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する試案」を71年5月に出していた。その後青山試案は日本小児科学会森永ヒ素ミルク調査小委員会で検討、一部補強の上、同年12月に採択されていた。その他京都府森永ヒ素ミルク中毒追跡調査委員会も、一年二か月にわたって実態調査・研究をしていた。その作業の結論を「医療、教育、就労、指導」等の各分野から、被害者救済の社会的態勢確立の提言として発表していた。
これらの案を参考にして守る会の親たちは、一人一人が自分の子供の状態に応じて「こういう救済案が望ましい」という案を作った。それを各支部で討議して「支部要求」としてまとめて各都府県本部に提出した。これを全国本部へ集め、項目別に整理編集し、第一次案となった。第一次案は全会員のもとへ配布され、再度討議の材料にされ、要求は何百項目にも増え、また一から討議した。繰り返しは結局四回行われ、最終的には体系的なものになっていった。
72年7月の時点では討議はすでに8か月に及んでいた。守る会の全国本部に「恒久対策案作成作業小委員会」を設置して総仕上げをおこなった。8月初めには事実上の最終案が全会員に配布され、8月20日の第四回全国総会において決定される手筈は整った。
ところが8月16日に森永は常務会声明を発表し「公的責任に欠けていたことを認め、今後の措置については、守る会の示す所に全面的に沿って行く」という攪乱戦術に出た。
7 ひかり協会の設立
守る会の第四回全国総会で恒久対策案は全会一致で可決された。「すべての力を恒久対策案実現のために」を合言葉に、闘いを展開することになった。正式には「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案」はマスコミの評判もよく、「現在の日本における公害被害者等の福祉の理想像を示すもの」という大学教授もいた。これらのことは、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者を救済するために、森永はこの案を実現する義務をがあることを社会が認めたのだ。別の表現をすると被害者が恒久対策案にもられた内容を要求する正当性について、国民的合意が成立したことを意味する。
その一方で、守る会は森永の常務会声明の真意を質す必要があった。9月24日岡山市で開かれた第十四回本部交渉には、大野勇森永社長が初めて出席した。席上大野は常務会声明について「森永は守る会との交渉を前進させるため、因果関係・企業責任を認めると言ったのであって、そのことは因果関係の法的承認を意味しない。個々の被害者の因果関係については争う」と言った。
さらに11月4日には「被害者救済のために15億円を出す用意がある」という発表をした。その具体的内容は次のようなものだ。「1.10億円を基金とし、その利息で、検診、治療、介護の経費を賄う。2.5億円は、死亡者の弔意と、福祉関係一時金である。3.15億円は一回限りの支出で、「打切補償」の総額である。4.右の措置を実施するには公正に運営される機関がいるが、それは守る会と会社と厚生省で構成する」
8月16日に発表された「常務会声明」も突詰めてみれば中身はこのようなものであった。企業責任と因果関係を認めずに「守る会の示される所に全面的に沿っていく」とは、社会の批判をそらすために詭弁を弄したに過ぎなかった。
12月3日岡山市で開かれた第十五回の本部交渉には、出席を求めていた森永社長の姿はなく、常務が「15億円の枠内で被害者救済の実質的発展をはかるため、少数委員交渉で実のある話し合いを進めたい。ご諒解が得られねば退席する」との書面を読み上げて姿を消した。守る会は「本部交渉決裂」を宣言し、交渉の場を全国集会に切り替えて民事訴訟提起と不買運動に踏切ることを決議した。
今まで守る会が不買運動を決議しなかったことは、事件発生当時の苦い経験があったからだ。森永に要求を認めさせるために、不買運動に踏切ったが惨めな敗北を味わった。敗戦後10年でまだ戦争の傷は癒えず自分の生活を守るだけで精一杯、人のことどころではなかった。それ以上に被災者同盟は要求を通すことにばかり目がいって、社会に理解してもらう努力を怠ったために運動は不発に終わった。その反省から、一度不買の旗を掲げたら成功しなくてはならないと岡崎たちは思っていた。その時期が到来したのだ。
支援団体は結成時から不買運動を掲げて、あらゆる個人と組織に働きかけていた。だが守る会はここで初めて不買運動を社会に訴えることになった。被害者団体からの要請をうけて、労働団体などが相次いで「森永製品不買」の決議をした。それらの決議を新聞が競ってとりあげたので、実効力よりさきに心理的な打撃を森永にあたえた。森永の新聞広告もテレビコマーシャルも減っていった。
いち早く不買運動に参加を表明したのは、労働組合などの民主団体と呼ばれる組織である。このような運動をこころよく思わないのは、経営者側であるのはいうまでもない。ところが民主団体の中でも例外はある。日本生協連などはその例外か不売はしなかった。
民事訴訟については73年1月に守る会はつぎの決定をした。
1.訴訟は近畿地方を第一波一次として早期に敢行。以後、中国、四国、九州、関東と、各地方別に第二波、第三波と第一次提訴を行い、各波とも、二次、三次、とつづけて、全員訴訟に持ち込む。
2.訴訟は代表訴訟とし、費用は一切守る会が負担し、原告は勝っても金は受け取らず、その一切を恒久対策基金として積み立て、恒久対策案実施の原資とする。
3.訴訟提起により、原告が現在受けている救済を、森永側から打切られた場合、恒久対策基金でこれを賄う。
4月10日にはまず第一波訴訟として、近畿地方五府県の被害者ら36名が原告となり、森永と国を被告として、大阪地方裁判所へ訴を提起した。続いて8月24日に、第二波訴訟として岡山県内の重症被害者8名を原告として、岡山地方裁判所に訴を提起した。11月24日には、第三波訴訟として四国四県の11名を原告として、高松地方裁判所に訴を提起した。
刑事裁判はすでに起訴から18年が経過していた。最高裁から差し戻されて徳島地裁で審理中の裁判は、73年11月28日に森永有罪の判決が出た。
当時の状況を岡崎は次のように書いている。「不買運動は有史以来の規模で国民各層全体をまきこんだ。写真家の滝川恵清、吉田一法両氏をはじめ、講談の旭堂南陵師、フォークソングのすずききよし氏、漫画家の田村隼人氏からキリスト教団を含む、文化人、宗教陣まで及んだ。このような中で、大阪地裁では、弁護団の献身と敢闘、見事なチームプレー、協力医療陣の断固たる証言、守る会の動員体制、マスコミの大々的報道、等で、着実に原告有利の状況が進行した。裁判所側も、世論を微妙に反映して低姿勢で協力的であった。森永と国とは、法廷において型どおりの因果関係否認を打ち出したが、積極的な闘志には欠けていた。というよりも、むしろ、このまま裁判闘争にのめり込んでしまった場合のより大きな危険を、守る会よりも、一層強く感得していたのが、ほかならぬ森永と厚生省の側であった。」
これは4月10日第一波提訴当時のことであり、それに追い討ちをかけるように差戻し刑事裁判での「森永有罪」判決だった。この判決のなかで「企業責任」と共に、行政の怠慢を批判して「行政責任」までも認めている。
72年11月この裁判の第23回公判では森永側弁護人の反対を押し切り、被害者自らが検察側証人として法廷にたった。裁判の進行状況から森永有罪の予感は傍聴人の間には流れていた。そして73年3月の求刑公判では、森永側の二被告に対して最高の法廷刑である禁固三年が求刑された。
森永にとっては最悪の筋書きになりつつあった時に、厚生省が動きだした。73年7月に当時の山口敏夫厚生政務次官から、話し合いのテーブルにつかないかという打診が守る会にあった。裁判は裁判として、恒久対策案の実現のためなら話し合いにも応じる守る会の姿勢が分り、厚生省は森永にも働きかけた。
9月27日、厚生省から守る会に届いた書簡には「森永乳業に対し、守る会の恒久対策案を包括的に認める立場に立って誠意をつくすよう勧告したところ、同意を表明してきたので、大所高所に立ちこの場を活されるよう期待します」と書いてあった。
守る会の回答は「森永が恒久対策案を認め誠意をつくすことを確約したことを確認し、厚生省が国としてこのことを保証し、加害企業と厚生省がそれぞれの立場で責任をはたし恒久対策案実現のために、勧告に従って話し合いの場につくことを承認する」というものだった。
民事裁判と並行して、10月12日の第一回三者会談が厚生大臣室でひらかれた。守る会は密室取引との印象を受けぬように、本部役員(常任理事)全員が参加し、三者が対等の立場で会談するように求めた。第二回会談(10月21日)では未確認問題を討議し、第三回(11月17日)では救済対策委員会(後のひかり協会)の法人化についての専門小委員会を設置した。
第四回会談(12月1日)を前にして刑事裁判で森永有罪の判決が出た。山口次官は森永に対して「控訴すべきではない。でないと挑戦と見られて、会談は失敗する」と語り、森永は控訴を断念した。 第五回三者会談は12月23日に行われたが、刑事裁判の判決が直接的に投影したものになった。会談には斉藤邦吉厚生大臣、大野勇森永社長も出席した。この会談で署名捺印された「第五回三者会談確認書」がひかり協会の設立と、以後の救済を方向づけた。
8 恒久対策案の内容
前章でふれた第五回三者会談確認書の全文を次に掲載する。
確認書
厚生省、森永ミルク中毒のこどもを守る会(以下「守る会」という。)及び森永乳業株式会社(以下「森永」という。)は、昭和30年に発生した森永ミルク中毒事件の全被害者を恒久的に救済するため、昭和48年10月12日を第1回として5回にわたり、三者による会談(以下「三者会談」という。)を続けてきたところ、今日までに下記の条項について、互いに合意に達したので、ここに、そのことを明らかにするためにこの確認書を作成する。
記
1.「森永」は森永ミルク中毒事件について、企業の責任を全面的に認め心から謝罪するとともに、今後、被害者救済のために一切の義務を負担することを確約する。
2.「森永」は被害者の対策について、「守る会」の提唱する、森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案(以下「恒久対策案」という。)を尊重し、すべての対策について同案に基づいて設置される救済対策委員会の判断並びに決定に従うことを確約する。
3.「森永」は前2項の立場にたって救済対策委員会の指示を忠実に実行するとともに同委員会が必要とする費用の一切を負担することを確約する。
4.厚生省は被害者対策について「守る会」の提唱する「恒久対策案」の実現のために積極的に援助し、かつ、救済対策委員会が行政上の措置を依頼した時は、これに協力することを確約する。
5.この確認書は、被害者救済のための第一歩であって、今後、厚生省、「守る会」及び、「森永」は、それぞれの立場と責任において、被害者救済のために協力することを確認し、問題が全面的に解決するまで「三者会談」を継続し、「恒久対策案」実現のために努力することを確約する。
なお、このための必要な措置として、「三者会談」の中に、「救済対策推進委員会」を設置する。
昭和48年12月23日
厚生大臣 斉藤 邦吉 印
森永ミルク中毒のこどもを守る会 理事長 岩月 祝一 印
森永乳業株式会社 社長 大野 勇 印
(注)上記確認書の中の「救済対策委員会」が後の「ひかり協会」になる。それは恒久対策案の・具体的対策の (8)森永ミルク中毒被害者救済対策委員会 (イ)「救済対策委員会」の性格に規定されている。
これまで恒久対策案の成立過程などを述べ、内容については触れなかった。全文の掲載は無理なため、・具体的対策を中心に要約して紹介する。
森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案
A はじめに
ここでは、事件の発生とその後の経過、その間の行政等のとった処置が不十分だったため後遺症で苦しむ被害児が存在することになった、と述べている。さらにこの恒久対策案を発表することで「あらゆる公害の加害企業が果たすべき社会的責任を明示し、被害者救済の新しいパターンを提示するものだ。そしてわが国の貧困な福祉政策で十分な救済を受けていない、一般の障害者の利益にも貢献し、憲法の定める基本的人権で保障された幸福な生活をおくれるように」とより広い意味でも実現を願っているのだ。
B 恒久的救済対策の前提となる原則
次の原則を無視しては被害者を救済できない、とする。
(1)救済対象は全被害者 救済は未登録の被害者もふくむものである。
(2)森永の責任 事件発生が森永の食品製造業者としての注意義務違反であり、その後の対応が企業利益にのみ配慮したため今日の事態を招いた。
(3)国および地方自治体の責任 産業廃棄物の取締の怠慢と、事件発生後の広報活動の徹底を怠り被害者を増やした。「五人委員会」と「六人委員会」により被害者を切り捨てた。地方自治体は末端機関として森永と一体になって厚生省の被害者抹殺の片棒を担いだ。
(4)被害者の実態究明 将来にわたって被害者の不安を排除、実態究明と治療、観察のために、すべての被害者に「被害者手帳」を交付する。
(5)恒久的救済対策の内容 今まで不当に傷つけられた被害者の生存権・生活権・教育権等を完全回復・擁護を目的とする。死者にたいする補償、被害者の過去の苦痛に適切な補償措置と健康と幸福な生活の保障策。
C 恒久的救済の具体的対策
Ⅰ 具体的対策実施に際して考慮すべき問題点
(1)森永ミルク中毒の医学的特徴
(イ) 医学的に未経験の中毒 人間成長・発育過程でのヒ素中毒は人類史上初めてであり、医学的にも未知で本人や子孫の今後は予測できない。
(ロ) 中枢神経系症状の多発 微細脳障害症候群、精神薄弱、てんかん、脳性麻痺などの中枢神経系症状等で自身の行動能力が制限されている。
(ハ) 17年間の空白の影響 17年間健康管理を受けず放置されてきたことが、精神発育や情緒・生活発達にマイナスの効果を及ぼしてきた。
(ニ) 現在の科学レベルで把握できない症状 これら身体的、心理的欠陥は現在では把握できず、治療についても未開発分野が多い。
(2)具体的対策についての原則的諸問題
(イ) 継続的健康管理 健康管理機構が確立されねばならない。
(ロ) 実態の把握とその態勢 疫学者と臨床医の協力で追跡調査機構確立。
(ハ) 治療、養護の内容 社会保障制度の枠にとらわれない治療、養護。
(ニ) 各種対策の一貫性 各種対策が連携を保ちつつ実施されること。
(ホ) 救済責任と救済体制、加害責任 行政責任の上にたち全力をだす。
Ⅱ 具体的対策
以上の問題点を考慮して次のような諸対策とその運営が立案される。
(1)健康管理・追跡調査
(イ) 定期検診 毎年1回以上の定期的精密健康診断を行う。検診をする医療機関は被害者と家族の希望する所とし、統一カルテを使用する。
(ロ) 不定期健康診断、健康相談 必要に応じて随時診察相談を受ける。
(ハ) 管理登録センター 健康管理、追跡調査を統一的に実施するため、管理登録センターを設置し、疫学者と臨床医の協力で運営する。
(2)治療
(イ) 受療 被害者は希望する医療機関で随時治療を受けられる。治療内容に制限を加えず、和・漢・洋一切の療法を含む。
(ロ) 療養関係費 治療は無料とし、治療費のほか付添看護費、補食費、通院宿泊費、雑費も補償し、保護者の交通費、休業損害も補償する。自宅療養のための諸設備の費用も補償する。
(ハ) 医療チームの編成 専門医による「専門別チーム」など治療の充実と、被害者の要望に答えるために編成されることが望ましい。
(ニ) 相談判定 治療、検診、就職、職業訓練、施設への入所などについて適切な判定と助言のための窓口が各県一か所は必要である。
(3)健康手帳 健康管理、治療、相談のために、また受診券の役目などをもち被害者の追跡調査などの用途に手帳を利用できるようにする。
(4)家族に対する保障
(イ) 介護料 日常生活を一人で完全にできぬ被害者に、保護者その他の介護人の必要を認め、その段階に応じて介護料を支払う。
(ロ) 家族の健康の保障 被害者看護で誘発された疾病の医療費の保障。
(ハ) 家族の生活の保障 被害者看護での休業、廃業などは生活費の保障。
(5)保護育成とその施設
(イ) 保護育成の原則 家庭は生活の基盤であり保護育成の場でもある。
(ロ) 相談判定 相談機関が職業選択、保護育成の相談、判定を行う。
(ハ) 教育 義務教育を受けることができなかった被害者に、能力に応じて養護学校、特殊学校、訪問指導員など諸制度の方法を充実活用する。
(ニ) 職業訓練およびその施設 相談判定の結果、職業技術習得のための訓練をする。理解ある事業所にも依頼し、また職業訓練施設を設置する。
(ホ) 保護雇用事業所 自立して労働、生活ができない被害者には保護を受けつつ労働できる事業所を設置し、社会人と同様の収入を保障する。
(ヘ) 協力事業所 被害者に理解をもつ事業所に就職や訓練を依頼し、能力不足による収入減は国家公務員標準給与を基準に保障する。
(ト) 収容施設 自立生活ができず、家庭での看護不能の被害者を収容する施設を設置する。これが社会的隔離とならないよう運営する。家庭の意思を尊重し、つながりを保つため保護者の宿泊施設を併置する。
(チ) 医療センター 収容施設には医療センターを併置する。通入院可能な規模内容をもち、研究施設としての機能を有するものとする。
(リ) 保護育成事業と施設の運営 上記(ロ)~(チ) の運営は一貫した方針で行い、諸施設は同一施設内に作り利用者は必要経費を支払う。
(6)生活権の回復
(イ) 年金 自ら収入を得られない被害者には国家公務員一般行政職の給与相当額を基準として、年金を終身支給する。
(ロ) 収入差額の保障 被害者が精神的、身体的事由で就職できず、また就職しても能力不足で標準的収入を得られない場合は、国家公務員一般行政職給与を参考に差額を補償する。上記事由での休業も損害を保障す。
(ハ) 結婚不成立に対する慰藉 被害者であることに関連し結婚に支障が生じたり、離婚された場合は、妥当な慰藉の措置をする。
(ニ) 生活上の損害 この事件で生じた生活上の損害に適切な措置をとる。
(7)研究機構、研究施設
(イ) 研究機構、研究費 被害者の健康管理、治療等で医学者や各種専門家が連携を保ち経験を交流し問題点の研究、対策を開発する必要がある。
(ロ) 研究施設 研究施設は治療・保護育成施設への併設が効果的である。
(ハ) 研究委員会 研究事業を推進するため研究委員会を設ける。
(8)「森永ミルク中毒被害者救済対策委員会」
(イ) 「救済対策委員会」の性格 守る会の主体性で民主的に運営される。
(ロ) 「救済対策委員会」の機構 (略す)
(ハ) 費用 「救済対策委員会」の決定で森永が必要経費の全てを負担す。
Ⅲ 死者に対する補償及び生存者の過去の損害に対する補償
(1)死者に対する補償 死亡に伴って生じた一切の損害について補償する。
(2)生存者の過去の損害に対する補償 過去の損害に補償する義務がある。
Ⅳ 将来の要求
被害者救済のため新たな措置が必要となった場合、森永は応じなければならない。恒久対策案は被害者自身の要求を拘束するものではない。
D むすび (略す)
9 恒 久 対 策 案 の 実 施 状 況 ( 1 )
ひかり協会は、恒久対策案を実施するための機関である。恒久対策案は被害者を救済するためのものであり、どちらもその逆の存在ではない。そのことはひかり協会の「寄附行為」の3条にも次のようにある。
「この法人は、森永ミルク中毒事件に起因する被害の救済のための事業及びこれに関連する調査、研究その他の事業を行い、被害者等の福祉の増進を図り、もって公衆衛生及び社会福祉の向上に資することを目的とする。」
また財団法人ひかり協会「設立趣意書」にも要約すると
「恒久対策案の精神を生かし、各種の事業を実施するとともに、将来にわたって全被害者の救済をはかる。被害者の継続的健康管理、治療養護、生活保障、保護育成事業を実施し、被害者の福祉の向上をはかるとともに、関連する調査研究をおこない」とある。
さらに「設立発起人会議事録」にも次のようにある。
「本財団の運営にあたっては、被害者及び森永ミルク中毒のこどもを守る会を主体とする被害者の親族等の意見を尊重し、それを反映するよう努めること、及び、今後の理事の選出にあたっては守る会の推薦する者5名、及び学識経験者10乃至15名の構成を維持することを申し合わせた。」
これまで恒久対策案がどのような経過をたどって成立したか、またその実施機関であるひかり協会の設立の経緯、恒久対策案の内容等について述べてきた。いままで見てきたこととひかり協会の寄附行為、設立趣意書、発起人会議事録などを読むと、これから救済に向けて動き出す意気込みを感じる。恒久対策案の内容を見てこれを実施するための強い意思を持続すれば、被害者の救済は約束されたものと誰でも思うに違いない。
そこで恒久対策案がどのように実施され、被害者の救済はどこまで進展しているか、問題の核心はここにある。それを順次明らかにするのがこの章の目的であるが、まずひかり協会発足当時の給付内容を紹介する。これ以後年代順に提示する方法もあるが繁雑になるので、重要な決定によって給付基準等の変更があった場合のみ記述しその他は省略する。
給付内容一覧表(1975年度 予算額\489,288,000)
1健康管理
検診費 全額
交通費 市電、バス等一般交通機関の実費
宿泊費 旅館の場合 1泊\4,000
知人親戚の場合 \2,000
食事費 \400
2医療
医療費 協会指定疾病以外の治療は保健自己負担分
高額療養費が適用の場合\30,000まで
交通費 市電、バス等一般交通機関の実費
宿泊費 健康管理の場合と同じ
針灸マッサージ 保健適用がされた自己負担分(実費)
入院付添費 看護人を雇った時・実費、家族は別に決め
入院差額 必要と認められる範囲の額
入院雑費 一日 \500
在宅重症者雑費 おしめ、パウダー、床ずれ防止薬等、実費
眼鏡料 要処方箋、二重給付不可、耐用年数4年
栄養指導、漢方薬、治療器具 実費
3介護
介護手当 月額\30,000
特別介護手当 月額\20,000(介護手当受給者で特別配慮をようする場合)
4生活保障
調整手当
Aランク 1級、2級の身体障害者手帳を持つ者他 \50,000
Bランク 3級の身体障害者手帳を持つ者他 \45,000
Cランク 日常生活に制限を受ける者他 \20,000
5Dグループ対策
調整手当対象者を除く、相談、金銭給付等
6教育奨学金
短大、大学、高専他 \6,000
特別貸与 \5,000
給付 小中高、各種学校 \6,000
7施設入所者
調整手当 社会福祉施設に収容 \20,000
面会等交通費 実費
帰宅時介護手当 常時介護を要する者帰宅日額\1,000
措置費自己負担分 自己負担相当額、ただし上限あり
救済の対象となるのは全被害者である。55年発生当時の被害者名簿を厚生省はすでに廃棄処分にしていたが、その写しを森永がもっていた。ひかり協会が受けとった時に登録されていた人数は12,401名、そのうち死者は497名であった。それに未登録の被害者も相当数いることが予想されていた。それらの被害者にひかり協会設立の挨拶状を送ったのが74年9月で、これが救済事業の第一歩であった。
その時のアンケートでひかり協会からの救済を受けるために、今後連絡をとることを承諾した人は約3千名であった。当面はこの人達が救済の対象者として始められた。
前ページで示した給付内容は被害者に対する金銭の給付基準である。それとともに恒久対策案には、被害からの回復をはかるための各種の救済活動と、施設の建設などが盛り込まれている。これらをひっくるめて、森永は「必要とする費用の一切を負担する」と約束しているのである。
ひかり協会が発足してから、救済活動が軌道にのるまでには時間がかかった。医療費などは、これまで「現地交渉」である程度実施されていたのでその延長でやれた。事業は各種の委員会の答申をうけて実施するため、調整手当、介護手当、施設入所者調整手当などの金銭給付が先行した。
救済事業を実施するには、被害者の現状を知ることが先決であり、第一回の実態調査が行われたのは発足から5年後の78年であった。調査対象者12,650人、回答があった51%のうち、不具合と答えた人が19%もいた。 恒久対策案では「相談指導」を重要視していて「相談に応じ治療、検診、就職、職業訓練、施設への入所などについて適切な判定と助言を与え、かつ指導する」と規定している。相談に対しては各専門家が助言し指導することになっている。相談件数も発足から10年間で延べ約14,000人に達している。
恒久対策案にもられた内容に、実際の救済事業を近付けることは困難なことであった。しかし発足当時は職員や専門委員には、理想に向かっていく意気込みが感じられた。そのことは医療委員会の答申では「現在における科学的判断にもとづく最高水準の医療を保障する。」と明確にのべていて、制限をくわえていないことをみてもわかる。
また、歯科治療についても「自由診療分については、歯科医の見積もりを歯科小委員会で治療開始前に審査し、適正な額を補助している昭和57年度の補助額は申請額の64%、58年度は80%であった」と協会はゆるやかな制限で認めている。
協会発足から10年間の予算の推移は次のようになっている。
年度 | 予算総額 | 管理費 | 構成比 | 事業費 | 構成比 | その他 | 構成比 |
74 | 348,955 | 101,759 | 29% | 242,152 | 69% | 5,044 | 1.4% |
75 | 489,288 | 137,294 | 28 | 351,994 | 72 | ━ | ━ |
76 | 553,229 | 155,999 | 28 | 387,230 | 70 | 10,000 | 1.8 |
77 | 643,630 | 50,372 | 7.8 | 574,938 | 89.3 | 18,320 | 2.8 |
78 | 702,093 | 58,769 | 8.4 | 621,244 | 88.5 | 22,080 | 3.1 |
79 | 787,707 | 68,552 | 8.7 | 698,340 | 88.7 | 20,815 | 2.6 |
80 | 878,854 | 74,861 | 8.5 | 771,166 | 87.8 | 32,827 | 3.7 |
81 | 927,622 | 83,037 | 8.9 | 802,495 | 86.5 | 42,090 | 4.5 |
82 | 973,466 | 80,375 | 8.3 | 858,984 | 88.2 | 34,125 | 3.5 |
83 | 1,083,922 | 90,274 | 8.4 | 951,667 | 87.8 | 41,981 | 3.9 |
(単位千円)
ひかり協会が設立されてから現在(2004)で30年になる。その間の救済の実態を明らかにするのがこの章の目的である。私は便宜上30年間の推移を3つに分けて比較したいと思う。第1期として発足から84年までを第2期として85年から94年まで、第3期として95年以降と区切りたいのだ。 この表を見て気が付くことは、予算規模が10年間で約3倍になっていることである。それはひかり協会の存在が、広く被害者に知られるにしたがって、救済をもとめて被害者が名乗りをあげた結果であろう。それで一人でも多くの被害者が救われるとしたらいいことである。
それともう一つは、77年の予算から管理費の比率が急に下がったことである。予想されることは管理費(人件費)が予算の約3割にのぼり、その批判をかわすために計算上の操作で低くみせていることである。そうでも考えないかぎり、2割も節約できるわけがない。
第1期の事業の推進には、当然であるが常に恒久対策案が念頭にあったようだ。それは次の文章をみても読み取れるのである。「額の設定は、重度障害であるAランク受給者の場合障害福祉年金(1級11,300円)と併せて、国家公務員給与相当額になることを考慮した。この金額改定は、49年(昭和)8月の人事院勧告に基づく公務員給与引上げを見込んだものであった」(『ひかり協会10年の歩み』80ページ)
恒久対策案で唯一具体的な基準値としてあるのが「年金」の項目である。ここでは「自ら収入をえることができない被害者には国家公務員一般行政職の給与相当額を基準として、年金を終身支給する」とある。それにそうために、基礎手当と付加手当などを組み合わせ、それに公的年金を加えれば「2万円から14万円の幅で倍以上の支給形態がとれ、より高い水準まで実態に則し、きめ細かい個別対応が可能になった」とあり、評価できる。 死亡者問題については、守る会では75年12月に「死亡被害者の遺族の救済について」を決定して、ひかり協会等に申し入れた。それに対して、死亡者特別委員会の判定で森永が費用を負担することになり、76年4月には「予算外の事業」として黒川常務理事と森永の間で契約を結んだ。その後「家族援助実施要領」を79年10月に決定し家族援助金Aと家族援助金Bを決定した。76年1月から香典料5万円と葬祭料35万円が死亡者の遺族おくられているが、これとは別のものである。
それまでも死亡者の遺族に対しては、守る会の県委員長などが交渉にあたり慰謝料名目の一定金額が支払われてきた。この額については当事者以外には秘密で、公表されることはなかった。そしてまた黒川理事と森永との間で契約を結ぶという、不明朗なやりかたで内容はわからない。家族援助金についても「給付内容一覧表」の中には表示してない。00年に死亡した被害者の遺族は、香典料と葬祭料の40万円のみ受けとったと証言した。 収容施設、医療センターについては前進がないようだ。ひかり協会設立まえに、岡山の守る会が市内栢谷に「太陽の村」を建設した。ここには水田3aと果樹園などがあり、支援者等からのカンパなどを基金として作業棟などが作られた。被害者の共同作業所とする構想のもとに、78年にひかり協会へ寄付して管理が移管された。
10 恒久対策案の実施状況( 2 )
84年10月ひかり協会が発表した「三十歳代を迎えての被害者救済事業の基本的確認事項」(以下、「三十歳代」と略す)の文章を読むと、恒久対策案の実施を事実上放棄したことが推測される。86年1月号の『恒久対策』に掲載されているので要約して記述する。これは守る会(親の会)と太陽の会(被害者自身の会、当時は親の会と分かれていた)ひかり協会の三者で検討したとなっている。
Ⅰ総論では、1 三十歳代を迎えての被害者救済事業のあり方を検討する視点では、守る会が救済事業の見直しにあたって、協会に親なきあとの事業のあり方の検討を要請したとある。
そのためには「第一には被害者の健康保持と社会的自立、親なきあとも自力で生きていく力を獲得する。第二には親族、協会、地域の支える体制を確立する。第三には働く場を保障すること。第四に本人に適した施設を公的制度の活用を含めて考える」とある。
2 三十歳代を迎えての被害者救済事業をすすめる上での前提事項では(1)三者会談の精神をまもる、(2)専門家の協力、行政の協力の重要性、(3)公的制度活用の優先を原則、(4)三者会談の確認書、協会設立の趣意書の方針を堅持する、とある。
Ⅱ各論では、1 相談事業「三十歳代を迎えその生活が多様化し、事務所の相談事業の体制の充実強化を図る。」
2 健康・医療「救済対象の最重要課題、今後の医療費の急激な増加と保健適用外の医療の対策については、検討課題とする。
3 生活保障・援助「生活保障の内容は、経済基盤の確立が基本であるが、金銭給付に限定したせまいとらえ方をするのではなく、健康で文化的な日常生活を営むことを保障するため福祉・医療・教育など総合的にとらえなければならない。重症被害者に対する生活保障事業としての手当の内容は、公的給付と合わせて、国民的合意の得られるものとする。本人の所得保障の水準額は、三十歳の勤労者の賃金の60%とする」
4 施設問題「三者による施設に関する調査・研究体制をとる」
5 運営・体制は省略するが、「生活保障・援助」についての「付記」として「趣旨は、救済事業の対象が被害者本人であることから、生活保障事業の金銭給付の内容は、本人の生活費を賄うことができるような所得保障の水準額を設定すべきであると述べたものである」
以上が「三十歳代」の要約であるが、この文書がその後の被害者救済を方向づけたものであるといえる。この中で特徴的なのは、恒久対策案という言葉が一度も出てこないことである。救済事業の基本方針は恒久対策案の実現であるが、そのことは抜け落ちている。
「三十歳代」が出された意味は、ひかり協会の予算が二年前から10億円を突破したことと無関係とは思えない。そのことを証明するのが、「生活保障・援助」の項目ではないだろうか。
前章で述べたようにひかり協会では、支給金額の基準として「国家公務員給与相当額」が意識のなかにあった。それがこの時期に来て、なぜ「三十歳の勤労者の賃金の60%」になるのか、くわしい説明はない。「健康で、文化的な日常生活を営むことを保障する」のであれば、むしろ引上げることこが適当である。それが逆に引き下げることになっている。
次のページの第1表は、30年間の生活手当、障害者年金の支給額と平均給与を一覧表にしたものである。75年から85年までは障害者年金1級の受給者は、月額5万円の生活手当をひかり協会から支給されていた。それが86年からは45,125円に減額されることになったのだ。逆に障害者年金2級の被害者は、ひかり協会からの生活手当が58,100円に上昇している。公的年金である障害者年金と生活手当を合計すると、1級2級とも11万円になる。このことは被害が重い1級被害者は、加害企業森永からうける補償としての生活手当が2級の被害者より少ないという矛盾を生じている。
このような基準を作成した理由らしきものは「国民的合意の得られるものとする」と「三十歳代」で述べている。協会設立までの運動を要約すれば恒久対策案の実現が悲願であった。その実行機関である、ひかり協会の設立まで到達できたのは「国民的合意を得られ」たからではなかったか。ここでそう言い出すのは、減額のいいわけとしか思えない。
(注)ひかり協会発足に伴い、生活手当は暫定的に障害者基礎年金1級、2級受給者は基礎手当て(生活手当)50,000円を支給されていた。加えて1級受給者には付加手当て40,000円が加給されていた。それが、87年度からゆらぎだし、計算方法は複雑化し、88年からは生活手当ではなく介護料という名目に変更された。それでもまだ、ひかり協会の支払う額は、1級が2級より多かったが、徐々に逆転して行き、今日の形になる。「30歳代」には三者で検討した結果、支給基準が変更されたことになっているが、87年ころから、すでにその動きは「介護料申請者」宛の決定通知書に見られる。
平均給与、障害者年金、生活手当比較 第1表
(単位は円)
年 | 平均給与 | 障害年金 | 生活手当 |
| 年 | 平均給与 | 障害年金 | 生活手当 | |||||||
1975 | (50) | 158,562 | 188,010 | 1級35,373 | 2級28,300 | 50,000 |
| 1991 | (3) | 372、289 | 440.812 | 73,125 | 58,500 | 50,975 | 65,600 |
1976 | (51) | 179,259 | 209,702 | 41,250 | 33,000 | 50,000 |
| 1992 | (4) | 377、779 | 446,400 | 75,500 | 60,422 | 52,650 | 67,758 |
1977 | (52) | 196,409 | 229,312 | 45,125 | 36,100 | 50,000 |
| 1993 | (5) | 357,758 | 426,142 | 76,800 | 61,442 | 53,500 | 68,858 |
1978 | (53) | 206,925 | 240,661 | 48,133 | 38,508 | 50,000 |
| 1994 | (6) | 368,717 | 439,358 | 77,842 | 62,275 | 54,258 | 69,825 |
1979 | (54) | 217,450 | 255,842 | 49,791 | 39,833 | 50,000 |
| 1995 | (7) | 396,460 | 439,496 | 81,835 | 65,458 | 57,075 | 73,442 |
1980 | (55) | 234,754 | 278,135 | 52,250 | 41,800 | 50,000 |
| 1996 | (8) | 396、625 | 474,684 | 改正なし |
| 改正なし | |
1981 | (56) | 248,600 | 294,940 | 56,250 | 45,058 | 50,000 |
| 1997 | (9) | 391,849 | 469,282 | 〃 | 〃 | ||
1982 | (57) | 253,719 | 300,587 | 58,652 | 46,900 | 50,000 |
| 1998 | (10) | 384,128 | 455,923 | 83,283 | 66,625 | 58,177 | 74,775 |
1983 | (58) | 265,738 | 313,948 | 改正なし | 50,000 |
| 1999 | (11) | 366,558 | 447,022 | 83,775 | 67,017 | 58,425 | 75,183 | |
1984 | (59) | 277,008 | 327,500 | 59,775 | 47,817 | 50,000 |
| 2000 | (12) | 367,833 | 450,233 | 改正なし | 改正なし | ||
1985 | (60) | 288,209 | 342,913 | 61,875 | 49,450 | 50,000 |
| 2001 | (13) | 378,833 | 461,364 | 〃 | 〃 | ||
1986 | (61) | 291,210 | 346,544 | 64,817 | 51,900 | 45,125 | 58,100 |
| 2002 | (14) | 364,049 | 441,190 | 〃 | 〃 | |
1987 | (62) | 309,562 | 367,020 | 65,258 | 52,208 | 45,467 | 58,533 |
| 2003 | (15) |
| 83,025 | 66,614 | 57,779 | 74,383 |
1988 | (63) | 313,315 | 330,165 | 65,333 | 52,267 | 45,567 | 58,633 |
| 2004 | (16) |
| 82,758 | 66,208 |
| |
1989 | 平成 | 1年 | 333,765 | 395,338 | 69,375 55,500 | 48,425 | 62,300 |
| (注)障害者年金の上段は一級、下段は2級。生活手当が1986年から上段は1級、下段は2級の支給金額。それらの決定は障害者年金準じている。 | ||||||
1990 | (2) | 362,232 | 423,218 | 70,967 | 56,775 | 49,534 | 63,725 |
| |||||||
(注)平均給与の上段は男女合わせた平均、下段は男性のみの平均賃金。
さらに『ひかり協会10年の歩み』では「この10年の間には、各種の学校の教材、公害被害者団体、障害者団体、消費者団体等各方面から協会事業についての問い合わせや、資料請求の要請が相ついだ。」(129P)とその成果を誇らしげに書いている。この本の発行は85年3月15日である。「三十歳代」はそれより前から、基準引き下げを協議している。その事実がありながら、他の公害団体に本心から救済の成果を誇るとすれば、よほどおめでたいか、欺瞞にみちているとしかいいようがない。
さらに問題なのは「勤労者の賃金」とあるが、基準となる金額の出典が不明である点だ。どこの機関が調査したとも説明がなく、もしかしたらデタラメかもしれない。恒久対策案にある「国家公務員一般行政職の給与相当額」を基準にしない理由の説明もない。第1表の平均給与は岡山県のものであるが、この60%にも足りない。さらに男性は男性の平均賃金を基準にしたのか、それとも男女平均を用いたのかそれも不明である。
恒久対策案には「公的給付と合わせて」という発想はない。国家公務員並の年金を終生支給することによってしか、森永は犯した被害を償えないのである。さらにひかり協会が被害者救済の方針とする「三者会談の確認書」の3項には「必要とする費用の一切を負担することを確約する」とあるのだ。5項には「恒久対策案の実現のために努力することを確約」しているのだから、ひかり協会はこれに違反していることになる。
その上「三十歳の勤労者の賃金の60%」は、このさき四十歳になっても五十歳になってもこの基準で支給するとは書いていない。だが実際にはこの年以後も続くことになる。被害者自身が三十歳になった時に「三十歳の勤労者の賃金の60%」といわれると、今後は同年齢の勤労者の賃金を基準にするものと普通は考えてしまうが、そうではない。
矛盾はまだある、その後何年経過しようが被害者が三十歳の時点(1985年)での賃金の60%でありつづけるのだ。それで「本人の生活費を賄うことができるような所得保障の水準額を設定」したと本当に思っているのだろうか。「国民的合意」は被害者を沈黙させる魔法の杖とみえて、現在までも利用し続けている。そこで次のページに掲載する第2表を見て戴きたい。これは他の公害、薬害被害者との補償額の比較である。
公害・薬害被害者と森永ヒ素ミルク被害者の補償額比較 第2表
(2002年当時)
■森永ヒ素ミルク被害者 | ■医薬品の副作用による被害者 | |||||||||
支給手当 | 一時金 | 年金月額 | 医療手当 給付金月額 | |||||||
生活手当 | (障害者基礎年金等級) |
|
| (1)通院の場合 \36,030-34,030 | ||||||
なし | 1級\58,425 | (2)入院の場合 \36,030-34,030 | ||||||||
〃 | 2級\75,830 | (3)入院と通院 \36,030 | ||||||||
調整手当て | (ひかり協会の基準) | 〃 | 1級\71,100 | 障害年金 | ||||||
〃 | 2級\64,000 | 1級金額 \2,737,200 \228,100 | ||||||||
〃 | 3級\28,600 | 2級金額 \1,900,000 \182,500 | ||||||||
介護手当 | (ひかり協会の基準) | 〃 | A= \85,200 | 障害児養育年金 | ||||||
〃 | B= \68,160 | 1級年額 \855,600 \71,300 | ||||||||
〃 | C= \51,120 | 2級年額 \685,200 \57,100 | ||||||||
健康管理費 | (ひかり協会の基準) | 〃 | 1級\20,000 | 遺族年金年額 \2,394,000 | ||||||
〃 | 2級\10,000 | 遺族一時金 \7,182、000 | ||||||||
遺族年金 | 〃 | なし | 葬祭料 \189.000 | |||||||
遺族一時金 | 〃 | なし | (厚労省のホームページから) | |||||||
葬祭料 | 〃 | \400,000 | ■スモン | |||||||
■水俣病 | 健康管理手当(全員) \42,700 | |||||||||
慰謝料 Aランク1800万円 | \60,000 | 介護費用 | ||||||||
Bランク1700万円 | \30,000 | 重病者 \42,700+\48,130 | ||||||||
Cランク1600万円 | \20,000 | 超重病者 \42,700+\92,800 | ||||||||
葬祭料 20万円 | 超々重病者\42,700+\154,400 | |||||||||
未認定患者(1)四肢末梢優位の感覚 | 障害がある人に一時金\260万円(2)一時 | 金には該当しないが一定の症状があ | る人にはハリ・灸などの医療費を補 | 助する(3)五つの団体に6千万円から | 38億円の団体加算金を支給する | (熊本日々新聞のHPから) | 和解金 (1)約 1,000万円以上 | |||
(2)〃 2,000 〃 | ||||||||||
(3)〃 4,000 〃 | ||||||||||
(4)〃 6,000 〃 | ||||||||||
和解金は様々で個々の症状や条件で | 違う。上記のランクはおおまかなもの。 | (岡山スモンの会) | ||||||||
11 恒久対策案の実施状況 ( 3 )
ひかり協会のいう「国民的合意が得られる」とは、「森永の合意が得られる」の間違いではないかと疑いたくなる。ひかり協会は毎年予算を作成して森永に請求すると、森永は三回にわけて金融機関へ振込むことが契約書と覚書きに記されている。しかし一言も文句をいわずに振込むとは思えない。加害企業の補償義務であっても、事件発生当時ことから推測することは簡単だ。ひかり協会の世間知らずの理事や、守る会のウブな被害者役員を手玉にとって、予算は森永の意向が強く反映されているに相違ない。
前ページの第2表をみていただけば、ほとんどの項目で森永ヒ素ミルク被害者が劣り、多いのは葬祭料だけである。この比較から「国民的合意」という言葉がいかに無意味であるか分かるであろう。
37ページで75年度の給付内容を紹介したが、15年後の90年度と比較してみると救済の後退ぶりがよく分かる。生活手当については見てきたが、その他についても同様である。治療費については入院差額、漢方・鍼・灸・あんま等、付添費に制限がついた。重度障害のための医療衛生用具、自助具の購入が実費支給であったのが援助にかわった。
増加したものは宿泊費が一日千円アップ、教育奨励金が2万円になったがこれは宣伝くさい。35歳になって養護学校、高等学校に通っているものはいないからである。
さらに施設問題については79年1月にひかり協会へ移譲された「太陽の村」が88年2月に廃村が決まった。その原因はひかり協会が「施設建設に明確な方針を持っていない」ことによる。これまで支援者からのカンパなどで資金を集めてきた事業である。やめた代表者に変わる「代表者の出現が困難な状態」という簡単な理由で廃村にされた。04年現在、研修センター苫田寮として建設された立派な宿泊施設は、無人の廃屋として放置されている。その後も施設問題を真剣に討議した様子はない。
95年になると被害者は40歳になる。そこで新しい「あり方」をつくることになった。それが「40歳以降の被害者救済事業のあり方」である。
ひかり協会の予算について39ページで設立から83年までの10年間のものを紹介したが、その後の金額は次のようになっている。84年から88年までは詳細は省き総額のみにする。84年\1,106,260,000、85年\1,113,815,000、86年\1,229,687,000、87年\1,246,749,000、88年\1,247,458,000である。
ひかり協会予算額 1989~2004年 数字は割合カッコ内は決算時割合 第3表
(単位は千円)
年 | 生活保障 | 医療 | 相談 | 地方管理費 | 本部管理費 | 予算順 |
89 | 39(40) | 15(14) | 8(7) | 22(21) | 7(7) | 1,292,730 |
90 | 38(38) | 15(16) | 7(7) | 22(21) | 7(7) | 1,357,545 |
91 | 38(38) | 14(15) | 7(7) | 22(22) | 8(8) | 1,420,560 |
92 | 38.4(38) | 14.2(15) | 7.5(7) | 22.6(22) | 7.8(8) | 1,464,008 |
93 | 37(38) | 15.5(15) | 7(6) | 22.9(23) | 7.8(8) | 1,520,389 |
94 | 38.2(40) | 15.7(15) | 5.9(5) | 23(23) | 8(8) | 1,519,711 |
95 | 39.4(43) | 14.7(12) | 5(4) | 23(24) | 8、1(8) | 1,532,668 |
96 | 40.9 | 13 | 5.2 | 23.6 | 8 | 1,524,334 |
97 | 41.5(43) | 13.7(12) | 4.5(4) | 23.9(25) | 8.1(8) | 1,539,868 |
98 | 42.3(43) | 13.1(13) | 4.4(4) | 24.5(26) | 8.1(8) | 1,536,913 |
99 | 42.3(43) | 13.8(14) | 3.7(3) | 26.5(28) | 7.2(7) | 1,552,433 |
00 | 41.7(43) | 14.8(14) | 4.2(3) | 26.1(27) | 7.3(7) | 1,576,449 |
01 | 41.1(42) | 15.1(15) | 3.6(3) | 26.4(27) | 7.2(7) | 1,578,914 |
02 | 40.8(41) | 16(16) | 3(3) | 26.7(27) | 6.9(7) | 1,577,348 |
03 | 39.3(41) | 17.8(17) | 3.7(3) | 26.4(26) | 6.5(7) | 1,628,572 |
04 | 38.6 | 17.6 | 3.7 | 26.4 | 6.9 | 1,639,839 |
(地方管理費と本部管理費はどちらも、ひかり協会の人件費である)
第3表でひかり協会の予算額の変遷を紹介したのは、この章で述べる主題と関係がある。「三十歳代」で生活手当の見直しがなされ、救済事業の後退が始まったと私は書いた。それがさらに「四十歳以降の被害者救済事業のあり方」(以後「四十歳以降」と略す)で後退が加速することになる。95年度の予算を太字でしめしたのは、この年に被害者は四十歳になり「四十歳以降」に沿って救済事業が行われる節目だからである。
この文章は長くタブロイド版のひかり協会会報『ふれあい』71号(95年2月1日)を8ページも使って掲載している。それを要約して紹介するのは難しい。なぜ難しいかといえば、内容が空疎でとりとめもない文章が続くからである。(これはひかり協会の文章すべてに共通する)
全体の構成は、はじめに、Ⅰ総論、Ⅱ事業のあり方、Ⅲ運営・体制、Ⅳ財源問題、付記となっている。その配分は、はじめにと総論で5ページを使い、残り3ページを事業のあり方その他にあてている。
しかし言わんとするところは、最後の「Ⅳ財源問題」である。これを最初に読んで、読み直したなら理解は容易である。すべてのことは財源問題につきるのである。ちょっと長いが全文を引用する。
以下、引用――――――
国民の理解と支持がえられる救済事業こそ、恒久的な救済事業の発展を保障するものである。このような救済事業の恒久的な実施を保障する救済資金の安定した確保の課題が「財源問題」である。
守る会も、「財源問題」の課題を三者会談確認書の履行を基本に、安定した救済資金の確保においている。このため守る会は森永乳業に対して、社内の事件風化を防ぎ事件に対する会社の責任を常に明確にして、加害企業としての社会的責任を果たすこと、および守る会、森永乳業双方の信頼関係のもとに、これまでの守る会との約束事を守り、救済事業を会社経営の中軸にすえることを求め、これを恒久的に救済事業を発展させる方針としている。要約すれば、
①三者会談確認書を基本にすること
②自主運営(基金の確保)という立場でなく、恒久的な救済事業を支える安定した資金の確保であること
③被害者救済と会社経営とを両立させる立場をとり、「資金は無制限である」「最初に財源問題ありき」という立場ではなく、国民の理解と支持がえられる事業に必要な資金であること、である。
協会も、守る会の方針をうけとめ、「財源問題」を「四十歳以降のあり方」と関連させて三者会談確認書にもとづき、守る会と協力して、財源問題小委員会において検討していく。
以上、引用――――――
以上が「財源問題」の全文であるが、最重要問題でありながら簡単すぎる記述である。この中では森永の社内で加害責任が風化していることが推測できる。救済資金の支払いを低額におさえようとしていることもうかがえる。それらの加害企業の意向を「森永の息のかかった守る会役員」に代弁させているとしか思えない。
ひかり協会が設立される前であれば双方の主張は全て公開されていた。それによって「国民の理解」も得られていたが、このような書き方では理解のしようがない。本来ならば森永が言い出すべき問題でありながら、なぜ守る会がこのようなことを提言するのか、謎は深まるばかりである。
第5回三者会談確認書では「必要とする費用の一切を負担する」ことを確約したのだ。にもかかわらず予算作成に際してひかり協会は「自己規制」していたが、更にそれが強くなることは必至である。ここでも「国民の理解」を、「森永の理解」と置き換えて読むと事の本質が見えてくる。
これまでのことを念頭において「Ⅱ事業のあり方」を読み、第3表で確かめることにする。Ⅱの1相談事業(1)事業の基本の冒頭では次のように書いている。「相談事業は、どんな相談にも応じる総合的な相談の窓口をもち、人権を守り自立と発達を保障する救済事業実施の基本であると位置づける」と相談事業を規定する。
「救済事業実施の基本」だとすると、相談から救済は始まるわけである。(2)事業の重点でもその重要性を述べ、「方法と体制つくり」を説いている。ここで強調しているのは「公的制度や社会資源の活用し解決」であり、「地域における集団への参加や人間関係をつくることに結びつけていく援助」である。さらに「さまざまな援助をコーディネイトする活動を展開して近隣の協力者、さらに兄弟姉妹、後見人などを援助者として対象者に即して組織する活動および援助者のネットワークづくり」である
自らは積極的に動かないで、他人の協力をあてにしたやりかたの「方法と体制」つくりを重点にしている。それは予算にも現れていて、「相談」の項目をみていただきたい。75年から急激に減少しているのが分かる。カッコ内の決算では89年度の半分になり99年度には約3分の1近くに減って行く。肝心の予算を減らして基本もないものだと思うが、その肩代わりに「協力員」制度を作った。これは被害者を「相談の窓口として救済事業協力員に委嘱」したものである。
専門的知識もない単なる話し相手を訪問させ、ボランティアということで僅かなお礼をでお茶を濁している。それは名前のとおり「ひかり協会の協力員」であり「自分は被害者の役に立っている」という錯覚を利用した制度である。
2保健・医療事業の(1)事業の基本では「保健・医療事業は、乳幼児期にひ素中毒という健康被害の性格からすべての被害者の保健予防および健康の改善・保持のための援助が基本になる」と規定する。
(2)事業の重点では「公的検診・職場検診の活用を基本にして必要な協会検診を実施する」ことになり、ひかり協会は主体的に実施しないことを表明している。ここでの主眼は被害者の「自主的健康管理の援助の一環として検診を位置づけ」ている。端的には「自分のことは自分でしろ」といっている。しかし健康な被害者はそれでもいいが、重症者はそうもいかないし、それが本当ならひかり協会の存在意義はどこにあるのだろう。
この項で繰り返し強調されているのは「公的検診・職場検診」の利用である。そして「被害者からの協会への公的検診・職場検診のデータの提供を促進する」と他人のふんどしで相撲を取ろうというのだ。
医療事業では保険外医療費などこれまで負担していたものを一部援助にし、高度先進医療の差額は援助対象とはしないことに後退させた。注目すべきことは、これまではひかり協会の救済事業の不足を補う意味で「公的制度・公的資源」の活用に言及していた。それは控え目なものであったのに、「四十歳以降」では「国民の権利として」と声高に主張している。
Ⅰ総論の冒頭では「乳幼児期のひ素中毒という性格と事件後適切なフォローアップがなされなかった」と書いている。このように前例のない事件で、今後被害者にどのような健康上の変化があるかは予測できないと、医学関係者も指摘するところである。
3生活の保障・援助事業では「また、これら(交通事故・労働災害の後遺症、能瀬注)以外でも中途で障害をもった場合は、成人期以前から障害をもっている現在の生活手当支給者とは、労働や社会保険などによる所得保障の条件が異なることなどを考慮し、同じ扱いはしないで公的制度(社会保険、社会保障)の活用を基本とする。」という。今後ヒ素中毒の後遺症と思われる事例が発生してもすべて切り捨てるということである。
生活手当の額については「類似する公的制度や調査結果の水準などからみて妥当」だとしている。さらに「保障水準額のスライド方式は、障害者基礎年金のスライド方式をとっており、消費者物価指数の変動だけでなく、労働者の賃金水準の変動も反映される方式であり、これを維持する」といっている。ならば是非「調査結果の水準」を公表してもらいたい。43ページの第1表は岡山県における常時30人以上の常用労働者を雇用する事業所の一人一か月の平均を示したものである。これは岡山県統計管理課のだした数字である。出典の明示を要求する人は多くいるのに、ひかり協会が公表しないのはなぜだろう。
施設建設については、「国・自治体の行政協力もえて、円滑な入所のための援助をおこなう」といい「協会としての独自の施設建設はおこなわない」と明言している。46ページで指摘したすでに廃村になっている太陽の村に建つ「苫田寮」については、「協会事業の将来構想の一つとして」再建を位置づけながら、以後10年間放置されたままである。
以上「四十歳以降」で方向づけられた救済事業は、恒久対策案を骨抜きにする意図が鮮明である。「三十歳代」では大骨を抜き、「四十歳以降」では小骨まで抜いてしまい、現在にいたっている。
第3表の予算額の配分が95年を境に変化した特徴は、相談事業の減額分がそのまま管理費(人件費)への増額である。生活保障と医療費それに人件費を合計すれば、予算の9割を占めてしまうことになる。そうなるとひかり協会は諸手当ての支給のためだけに、3割余の人件費を使うという無駄をやっていることになる。これでは「手当て支給だけがひかり協会の仕事ではない」(前野副理事長)と強弁してもだれも信用はしない。
死亡者問題への言及はないが、合祀されている高野山のお寺の過去帳への記載者が900名もあり、参詣した親はその多さに驚愕したという。
(次ページ資料 恒久対策案の実施状況 一覧表)
恒久対策案の実施状況
第4表

12 救済の現状 四つの事例
前ページの第4表は、恒久対策案が現実にはどのように実施されているか、評価をしてみたわけである。この中で気がつくのは、施設とか医療センターなど多額の資金を必要とするものは、ほとんど実行されていないことである。それと年金、収入差額などの支給金額がかさばるものは、低額におさえられている。
具体的対策の全ての項目を完全に実施するには、困難が伴うことは当然である。そこには自ずと実施の順番に差がでてくるのは、やむを得ないことかもしれない。しかしそうであれば、実施できない説明が必要になる。被害者に説明責任を果たさずにおいて、救済事業の批判にも耳を傾けない。反対者は排除して「1割実施」を強行してきたのが実情である。
これまでは被害者の救済状況を資料の比較から見てきた。これからはそれが実際にはどのようにあてはめられ、運営されているかを検証してみたい。ひかり協会の発表による救済事業と、それがなま身の人間に反映された場合とはまた違ってくる。
最初は、広島県に住む山田一之さんの長女N子さんの場合である。N子さんはヒ素ミルクの後遺症で、教育の機会が与えられなかった。78年に学校教育法の改正で養護学校設置義務が定められ、79年に広島市にも開校した。同年N子さんは26歳で、小学部6年生に過年児(者)で就学した。 しかし今まで学校に行ったことがなかったN子さんは、戸惑いの毎日でなかなか教育の成果はあがらなかった。自立の可能性がある時期に能力を伸ばしてやりたい、というのが山田さん夫妻の願いだった。
そこで、山田さんは85年5月に「学校の休日に指導員の派遣要請」をひかり協会に申請した。ところが9月末にきた裁定はでは「指導員の派遣は妥当であると判断しかねる」というものであった。恒久対策案に照らしても、拒否されるとは思っていなかった。 申請を審査した「救済対策委員会」の裁定内容の開示を求め、山田さんはひかり協会理事長と監事宛てに手紙をだした。返事がなかったのでひかり協会広島事務所へ裁定拒否の文書を出し、再度訪問指導員の派遣を申請した。救済対策委員会は協会から委嘱された、医師などの専門家で構成されていた。養護学校の先生たちも「学校の教育内容と関連させた、休日の訪問指導」の必要性を指摘していたので、よけいに納得できなかった。
山田さんは毎年ひかり協会の理事長宛てに手紙で直訴し続けた。四年半の間、時には四千人の署名をそえて、また行政にも働きかけて協会へ申し入れなどをしたが、理事長からは何の返事もなかった。
要求が実現したのは90年10月になってであった。ひかり協会の事務局長が山田さんに「やりましょう」という一声で実施がきまった。最初の拒否裁定であきらめていれば実施されることはなかったが、山田さんが粘り強く交渉した結果のことだった。しかし大抵の人は時間もエネルギーもなく途中で諦めてしまうだろう。
その後、四年半の時間を無駄に空費した責任を問う手紙を理事長に出したが、それも「ナシのつぶて」だった。これら被害者の声をまともに掬いあげられない協会内部の改革と、恒久対策案に沿った救済を山田さんは求めつづけている。
「三十歳代」の中では「生活保障の内容は、経済基盤の確立が基本であるが、金銭給付に限定したせまいとらえかたをするのではなく、健康でより文化的な日常生活を営むことを保障するため福祉・医療・教育など総合的にとらえなければならない」とある。それを言い直すと金銭給付はすくないが、その他の福祉、医療、教育で補うということであろう。
それがこの事例のように、要求し続けなければ実現されないとなると、ひかり協会の救済事業は信用できなくなってくる。さらに、その後の山田さんの要求に対して、守る会の機関紙「ひかり」は次のように書く。
「守る会組織としての対応は、全国本部と広島県本部が連携し、責任をもって行うこと、従来の経過をふまえ「三者会談」の四者(厚労省、森永、守る会、ひかり協会)で連絡・調整を図り対応すること」を03年の守る会第2回常任理事会で協議したとある。この後1年半たっても山田さんのところにはこの四者から何の連絡もない。これらは当事者以外にはわからず、他の「ひかり」の記事内容の信憑性も疑ってかからねばならない。
次の事例は岡山県倉敷市の榎原伊織さんと長女R子さんのものである。彼女は中学2年生のころから現在まで、病院への入退院の繰り返しで回復の見込みは、いまだにたっていない。
榎原さんはひかり協会の設立を機会に、守る会の運動からはなれていた。R子さんの後遺症はひどくなっていたが、恒久対策案を実行してもらえれば少しは安心できるという思いもあった。しかしそれだけでは不足するかもしれないので、蓄えを残しおいてやらねばと懸命に仕事に打ち込んでいた。数年前、家業を長男に譲って仕事の第一線から引退した。
それを機にR子さんの将来が気掛かりになり、ひかり協会の救済事業に関心を払うようになった。恒久対策案を久し振りに読んで、R子さんが受けている救済事業と比較してみた。すると実行されていない項目が余りにも多く、実行されていても申し訳程度のことに腹立たしい思いがした。これではひかり協会は「ひからん協会」であるし、これに黙っている「被害者を守る会」は「守らん会」だと思った。
R子さんは家にいる時でも天候によって病状の変化がひどかった。雨が降りそうになるとしきりに頭痛を訴えて、精神状態が悪くなった。これを克服できれば少しは気持ちが楽になるのではないか、ということを榎原さんは常に感じていた。娘はヒ素中毒の後遺症の苦しみで、一日として「生まれて来てよかった」と思ったことがない。せめて一日でも苦しみを和らげてやりたいと榎原さんは思った。
そこで頭痛のもとは気圧の変化によるもので、加減圧装置つきの部屋でも作り実験する価値はあると、ひかり協会に相談した。救済対策委員会の医師がきて話しを聞いてくれたが、それだけで計画を実行してみることもなく、拒否の返事もなく数年がたった。
榎原さんが「恒久対策案の完全実施を求める会」を作り、仲間に参加を呼び掛ける運動を始めたのは、このようなひかり協会の本質を見てしまったからだ。
最初は協会副理事長に恒久対策案を守るように、配達記録郵便をだしたが返事はなかった。次に協会理事全員に、今のような救済事業の空洞化についての感想を問う公開質問状をだした。誰からも返事は来なかった。次に岡山県の守る会会員に救済の現状について警鐘を鳴らし、共に闘おうという内容の手紙を送った。
すると守る会岡山県本部委員長が飛んできた。「恒久対策案の完全実施を求める会」という名称の中で、「会」は分派活動を意味するので処分の対象になる。やめるか名前の変更をするようにと勧告した。「会をはずせばいいのか」というと「黙認する」ということで「有志」に変更した。
榎原さんが守る会会員宛てにだした手紙に反論するために、岡山県本部委員長が出した文章は「守る会は当初より恒久対策案の完全実施を求めていません」という趣旨のものだった。それによると森永が「恒久措置案」を発表したので、それに対抗するために出した。いわば「あて馬」として恒久対策案を作成したという「珍説」を発表した。
03年の第35回守る会全国総会が6月22日に開催されるに際して、榎原さんは総会での発言を希望する手続きを取った。守る会は発言を認めず、総会への出席も傍聴も認めないという決定をした。これらは規約に違反しているので、会場前に横断幕を張って抗議した。それと並行して、入場者に「求める有志」のホームページ・アドレスを書いた名刺を配った。しかし名刺は会場内で役員の手によって回収された。
04年の第36回全国総会にも発言の手続きをした。守る会は「ホームページを閉鎖すれば発言を許す」という全国理事会の決定を突き付けた。それを拒否すると傍聴は許すが、発言は認めないという決定をした。会場では両側に監視役がつき、喫煙室、トイレへの往復にまでついてきた。
このように守る会もひかり協会と一体となって、救済事業についての批判を徹底的に弾圧するのである。守る会の規約は「会を守るためににあって、会員を守るためにはない」のであろうか。規約の前文にある「自主的・民主的に運営する」という文言は現実には死語になっている。
三例目は岡山市のYさんのことについてである。彼女は身体障害者手帳2級を持っていて、障害は両足にあらわれている。現在は80歳をこす両親と3人で暮らしているが、買物などの家事をするのは一番年長の父親である。母親も足が悪く外へ出ていくことはできない。
Yさんは車椅子も使わないので、ほとんど外出はしない。以前はたまには外出していたが、あることがきっかけですっかり外出ぎらいになった。あることというのは、ひかり協会岡山事務所の職員がもらした無神経な一言だった。「一人ではなにもできないくせに」といわれたことが長く尾をひいているのだ。
私が話しを聞きに訪問しているときに見たのは、三人が支えあって生活していることだった。だれか一人欠けても生活の歯車が狂ってしまうようだった。父親が買物をしてきて、足の悪い母とYさんが壁伝いに台所へ行き、何かに掴まって調理する姿だった。
ひかり協会からもたまには職員が来訪するが、三人がもっと楽に生活できるような話はしない。Yさんが積極的に社会と関係を持った生活をするには、外出することがまず必要だと私は第一印象で感じた。そのためには家の内部のバリアフリー化こそ、ひかり協会が一番に取組む救済事業だと思うがそんな提案はないという。
最後に紹介するのは岡崎哲夫さんと家族のことである。岡崎さんのことについては初めのほうで何回も書いたが、その他のことについてである。岡崎さんがいなければ、今の守る会はないだろう。勿論岡崎さん一人の力ではないが、彼が中心になって引張ってきたのを誰も否定できない。守る会がなければ「十四年目の訪問」もなく、被害者の再結集もないわけだ。
再結集後に創刊された守る会の機関紙「ひかり」は、最初はガリ版刷りだった。事務局長の岡崎さんが記事を書き、ガリ版で印刷して全国の会員に発送していた。毎月一回の発行で宛名は全員のものを、これもガリ版印刷しておいて、発送時にハサミで切って封筒に糊付けする。宛名印刷が機械化された現在では考えられないような作業を、家族でこなしていた。
「ひかり」の編集・発行に加えて会議は毎週のように開催され、討議項目と前回の決定事項の要約など、守る会のだす文書の作成はすべて岡崎さんの仕事だった。その他声明文から抗議文、請願書から要請文など彼の手になっていない重要文書はないといっていい。
岡崎さんの多忙ぶりを見るにみかねて、少しでも手伝いをして仕事量を減らしてあげたいと、71年の4月から私たち支援者が「ひかり」の発送作業を引き受けた。その頃は「ひかり」もガリ版刷りから活版印刷になっていたが、千部以上を折り畳んで封筒に入れ、宛名を張り付ける作業は10人ががりでも長時間を費やした。
全国組織になった守る会の闘いが国民の理解を得た要因の一つは、全ての会議を公開にしたことによると思う。それも岡崎さんの発案で、闘いの方針を決める全国理事会から、森永との交渉などすべての会議を公開してだれでも傍聴できた。国民の代表として新聞記者も傍聴しているので、重要な決定は新聞紙上で報道された。
このようにして「国民の理解」が得られ、「国民的合意」で恒久対策案は成立したのである。すべて非公開で決定した事項を「国民的合意が得られた」などというのは、根拠のない言い種である。
長年闘いの先頭に立って守る会を引張ってきた岡崎さんだが、82年から事務局長の席を他の人に譲った。その前後から守る会理事長など古参の役員は排除され、路線の対立が人事を通して表面化した。岡崎さんは自分たちが結成し、再結集の基盤になった守る会から86年に除名処分にされた。 除名処分の理由は「分派活動」というが、本当のことは恒久対策案に対する姿勢である。恒久対策案の完全実施、ひかり協会に対する守る会の従属的な関係の改善などの主張が排除された理由である。
会の規約では「全国委員会又は全国総会で弁明できる」と反論権の保障が盛り込まれている。岡崎さんは混乱をさけるため自分は出席せず、代読者を指定して総会で反論権の行使を理事長に通告した。しかし総会ではその時間は与えられなかった。
機関紙の編集は事務局長の仕事だったので、編集作業は岡崎さんの手をはなれていた。代読されなかった反論文の中から一部引用すると、次のようなことも書いてある。「例えば、私に対する批判中傷記事は機関紙「ひかり」に何面にも亘って特集するが、私の意見は一行も載せない。どこかの国そっくりの体制! 本来なら、私の意見を全部「ひかり」に掲載・公表させ、全会員の意見を結集して、決めるべき処分があれば決めるべきである。それを知りながら、それをしない所が、特定政党員の「有能」なる理由です」
岡崎さんが亡くなったのは00年の12月のことだった。その年の8月に被害者である娘のゆり子さんに先だたれたことが、彼の死期を早めたといえる。小学校教師として熱心な指導ぶりで生徒から慕われていたゆり子さんは、数年前に罹った胸腺腫という難病が治癒せず早世した。定期的な精密検診、ヒ素中毒の後遺症研究など、恒久対策案にもられた救済措置が機能していたら防げたと両親は嘆いていた。
岡崎さんの功績には森永ヒ素ミルク闘争の資料を、事件発生から丹念に細大漏らさず収集していることも含まれる。それらの資料は整理されて土蔵の一階と二階に収蔵されている。二人が亡くなった年に鳥取県西部地震がこの土蔵を襲い、屋根を破損してしまった。
他の公害事件では被害者団体や自治体設立の資料館があって、研究などのために資料の開示を行っている。
『中国新聞』(01年11月15日)によれば、四大公害訴訟では水俣病については、熊本県水俣市に被害者支援団体設立の「水俣病歴史考証館」と市立の「水俣病資料館」がある。ほかに新潟水俣病では新潟県立、イタイイタイ病では被害者団体設立の資料館がある。四日市ぜんそくでも市民団体が資料館建設運動を進めている。
しかし森永ヒ素ミルク事件では、守る会もひかり協会も無関心で、設立の機運さえ感じられない。岡崎幸子さんは私財を投入して土蔵の修復をし、夫の遺産である資料保存のため心を砕いた。
五年間にわたる娘の看病と死、それに続く夫の死は、幸子さんに回復不能の打撃を与えた。土蔵修復を待っていたように体調が崩れ、戦時中「勤労女子挺身隊」に動員された時に受けたズサンな手術跡が悪化して、ついに不帰の客となった。04年4月享年73、その人生の大半を森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者の娘と、闘う夫を支えることにあてた。彼女もこの事件の被害者の一人である。
人間死んでしまえばこれまでの経緯はさておいて、敵味方をとわず哀悼の意を表するのが礼儀であろう。まして岡崎さんは守る会の生みの親であり、ひかり協会設立についても人に倍する貢献をしている。にも拘らず彼の死に際して、ひかり協会会報『ふれあい』にも、守る会機関紙『ひかり』にも訃報も一行の「哀悼の辞」も載せなかった。 (一部敬称略)
あとがき
森永ヒ素ミルク事件発生から50年間を駆足で辿ってきました。いままでに数回この事件について書いていますが、その度に新しいことに気がつきます。今度、強く感じたことは厚生省(現在の厚生労働省)が被害者側の要求にはまったく耳を傾けていないことです。多くの国民を守らず、加害企業森永の側に立って動いているのは、どういうことでしょう。
結果としてそれが正しければ言い訳もできますが、これまたことごとく裏目に出ています。被害者に後遺症が残って、取り返しがつかない事態になったことの責任は、厚生労働省も負わなければなりません。ひかり協会が設立されてからも、被害者を守ることに積極的ではありません。恒久対策案の空洞化にも、なんら有効な手も打たず傍観者の立場にいて平気のようです。もういちど三者会談の確認書を熟読してもらいたいものです。
それ以上に不思議なのは、親たちが31年前に勝ち取った成果を、現在の守る会が守ろうとしないことです。三者会談の確認書にある通り「恒久対策案の実現のために努力することを確約」させたのでした。そのために「必要とする費用の一切を負担する」とまで確認書に書いているのです。
恒久対策案の完全実施を私たちは求めていますが、守る会の役員たちはそれが間違いだと宣伝しています。その理由としてあげるのは「恒久対策案は森永措置案に対抗して作成した」とか「恒久対策案の一言一句を完全実施しないからけしからんというのは恒久対策案の精神に反する」と言っています。これまでを読んでもらえば、「あて馬」説が間違いだとわかるはずです。恒久対策案の実施率は、現在約1割程度ですが「一言一句を完全実施しろ」と言っているとの反論は、せめて5割でも実施してから言ってもらいたいものです。被害者でありながら、これほど加害企業に「思いやり」ある擁護論を展開すれば、森永は随喜の涙を流して喜ぶことでしょう。その半分でも重症者に「思いやり」を示してもらいたいものです。
50年前に受けた被害は、それほど軽かったのでしょうか。被害者の中にはヒ素ミルクを飲まされたために、一生を棒に振ってしまった人もいるのです。それらを償うにはどれ程のことをしてもらっても、満足できないと思います。恒久対策案はよくできていても、完全無欠ではないのです。完全に実施しても体はもとには戻らないからです。
三者会談の確認書は被害者が補償をうける権利を認めた文書です。それを守る会が自ら放棄するような言動をして、恥じないことが私には理解不能です。その権利を否定する文言を過去の文書から抜き出し、前後の文脈を無視して被害者に不利な見解を守る会が主張しているのです。当然受けるべき権利を自ら否定するのは、どのような思惑からでしょうか。
他の公害被害者にこの姿はどのように映るのでしょうか。先人は「被害者救済の新しいパターンを提示する」と、その理想を高らかに宣言したのに、いまでは地に落ちてしまったようです。「ひかり協会方式」は前人未踏のものだと自慢しても、それは恒久対策案を完全実施すればの話です。現在のひかり協会は「反面教師」としての存在価値はあっても、手本にはなりません。他の公害被害者が、真似をしないのは当然だと思います。
この冊子を読まれた方は、私がひかり協会を批判しているのか、守る会を批判しているのか分からず、混乱されると思います。それは書いている本人も感じていることなのです。実はそのことが救済を後退させている元凶だと私は思っています。
ひかり協会の理事長も副理事長も守る会の出身です。後者は守る会の現理事長を兼任しています。その他多数の守る会役員がひかり協会の理事などを兼任しています。両方の組織は一つの考えで統一されてしまっているようです。その結果、力の強い方に引きづられていきますが、それは予算を執行するほうです。守る会はひかり協会の下請け会社のようなものです。
その上、両方の機関紙を編集しているのは同一人物です。ひかり協会と守る会の機関紙は、両会とは異なる考えは猛烈に批判しても、自己に対するる批判は一行たりとも掲載しません。ひかり協会の役員は「30年も存続したこと」を誇らしげに吹聴しますが、救済事業より存続するほうが大事なようです。「自己の存続こそがひかり協会の目的であり、そのために守る会があり被害者が存在する」というのが、ひかり協会役員の本音のようです。やっきになって異論を排除する理由もこのへんにありそうです。
2005年1月20日
能瀬 英太郎
森永ヒ素ミルク中毒事件年表
1949 | ★森永乳業設立 |
1952 | ★赤ちゃんコンクール実施 (岡山県が最初となる) |
1955 | ★西日本一帯で人口栄養児に奇病発生 (6月) |
★奇病の原因は森永ミルクによるヒ素中毒と岡山県衛生部が発表 (8月24日) | |
★日赤岡山病院入者を中心に被災者家族中毒対策同盟結成 (8月27日) | |
★徳島地検、森永を起訴 (9月20日) | |
★六人委員会「治療判定基準」その他、厚生省に答申 (11月2日) | |
★五人委員会意見書発表 (12月15日) | |
1956 | ★岡山同盟解散。岡山県森永ヒ素ミルク中毒のこどもを守る会結成 (6月24日) |
1957 | ★財団法人森永奉仕会設立 (2月20日) |
★『森永ヒ素ミルク事件史』発刊 (5月24日) | |
★日本母親大会参加決定。森永に全員治療の約束をさせ参加中止 (8月2日) | |
1958 | ★守る会、10人の被害児の治療を森永に約束させる (10月10日) |
1960 | ★第六回日本母親大会に参加。中山マサ厚生大臣に陳情 (8月20日) |
1962 | ★守る会第七回総会。 会の名称より「岡山県」を除く (8月27日) |
1963 | ★徳島地裁で森永の無罪の判決。 徳島地検は高松高裁へ控訴 (10月25日) |
1964 | ★岡山地裁に提訴中の岡山訴訟派55人は民事裁判で和解 (4月1日) |
1965 | ★守る会第十回総会。会の解散を否決して存続決議 (8月24日) |
1966 | ★高松高裁は第一蕃の判決を破棄、差戻し決定、森永上告 (3月31日) |
1967 | ★遠迫医師の斡旋で守る会は精密検診実施 (3月~9月末) |
1968 | ★岡山大学医学部衛生学教室から協力の申出、資料提供 (12月9日)) |
1969 | ★最高裁は森永の上告を棄却し、徳島地裁へ差戻し (2月27日) |
★大阪大学医学部丸山教授らによる 「十四年目の訪問」 公表 (10月18日) | |
★朝日新聞で 「十四年目の訪問」大々的に報道 (10月19日) | |
★守る会第一回全国総会、守る会全国組織となる (11月30日) | |
1970 | ★森永と守る会、岡山市で第一回本部交渉、今後のルール確認 (12月12日) |
1972 | ★「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案」 成立 (8月20日) |
★第十五回本部交渉森永欠席、守る会民事訴訟、不買運動決議 (12月3日) | |
1973 | ★第一波訴訟を大阪地裁に提訴 (4月10日) 第二波提訴岡山地裁 (8月24日) |
★第五回三者会談で森永企業責任を認める確認書に調印 (12月23日) | |
1974 | ★財団法人ひかり協会設立許可される (4月25日) |
★守る会、民事訴訟を全国一斉に取り下げ。不買運動の中止を要請 (5月24日) |
森永ヒ素ミルク中毒事件 発生から50年
被害者救済事業の実施状況
◆発 行 2005年1月30日
◆著 者 能瀬 英太郎
◆発行者 恒久対策案の完全実施を求める有志
デジタル化ドキュメント掲載サイト
森永ヒ素ミルク中毒事件資料館
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1.WHO [世界保健機関] 搾取的粉ミルクマーケティングの衝撃的レポート [1] [2] [3] / WHOが乳幼児食品業界に対し搾取的粉ミルクマーケティングの中止を要求 [1] 粉ミルクとタバコは、国際的な販売禁止の勧告がある唯一の二つの製品である [ 2 ] [3] / 2.United Nations University Press [国際連合大学出版] 技術と産業公害> 森永ヒ素ミルク中毒事件 [English Version] [1] /3.Report of Morinaga Arsenic Milk Poisoning Incident [English Version] [1] [2]
©森永ヒ素ミルク中毒事件資料館
©Museum of Morinaga Arsenic Milk Poisoning Incident