『森永乳業50年史』にみる事件封殺の手法

森永と電通ー悪魔の対談 その1 「たまたま始まっちゃった(事件)」で「損害を受け」たけど「森永への好意と理解を急速に回復」

森永ヒ素ミルク中毒事件資料館 岡崎久弥
2025年5月10日 17:18

救済運動を圧殺した「手の内」を自慢げに披露する森永
 
 「森永ヒ素ミルク中毒事件の現在」で触れたが、1955年(昭和30年)に発生した森永ヒ素ミルク中毒事件で、森永乳業は、事件発生直後から国を前面に押し立てて被害児救済運動を封殺し、翌年以降はメディアからも被害者家族の訴えを消すことに成功した。報道もされない、報道しかけた雑誌も途中で黙らされる、「読者の声欄」からも排除され、という完璧な封殺体制のなか、国民も事件を忘れていった。
 これ以降、被害者救済運動は岡山市で「森永ミルク中毒の子どもを守る会」の岡崎哲夫事務局長をはじめとした数家族のみで細々と維持されていた。 
 その訴えはことごとく無視され、孤立無援の中での闘いを余儀なくされていた。その数家族も年に一回、岡崎宅に集まるくらいで、実務は岡崎個人が一身に引き受けていた。(もちろん、この孤独な闘いがなければ、その後の14年目も、裁判での勝訴も、恒久救済対策案と1974年のひかり協会発足など、一切が、存在し得ていない。私も幼少の頃からガリ版の印刷や書類の発送といった作業を、時には真冬の土間で一人でやらされていた。あったのは小さな石油ストーブ一台。この地味な作業を他の被害者家族が手伝いに来ることはなかった。)
 この抹殺状態が続いた12年後の1967年に、森永は、事件を社会から完全に消し去ったと「確信」し、ある決断をした。
 「被害者家族に対して勝利したこと」を「わが社の栄光の歴史として」活字に残し、永久に記録することだ。

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加害企業が大量殺人の責任隠蔽を自己礼賛する行為は前例がない。

 森永は1967年に発刊した『森永乳業五十年史』(ポスター8P参照)に、救済運動の圧殺に協力させた者の実名を、県名から社名まで名指しで紹介し、これらの組織と“共に喜びを分かち合おう”とした。(『ヒ素ミルクⅠ』に詳しい(DL Free 分冊1,分冊2 その発言者の素性については明かされてこなかった。)

元森永社員で電通常務の新井静一郎が、事件封殺を豪語
 文中、元森永社員で1967年当時「電通」の常務取締役、かつ、大戦中に戦時プロパガンダに協力した「報道技術研究会」幹部の「新井静一郎」が登場する。赤ん坊殺しへの反省など微塵もなく、自慢げに「宣伝の威力」を語っている。
 対談の全体は、結構な長文なので、決定的な部分にだけに絞って、いくつかにわける。
 第一回は、昭和30年の事件を「MF」と隠語で表し、他人事のようにうそぶいている。全編「お上品な言い回し」で、森永への直接協力者を実名で褒めながら、カネと宣伝で、なにもかもが操作できると豪語する。
 これが、「エンゼル(天使)マーク」で売ってきた企業の正体である。

『森永乳業五十年史』(1967年刊行)より

新しい乳業のイメージを
  ドライミルクを中心に育った広告活動

■出席者
鈴木 文二 元宣伝課長・現親和産業社長
新井静一郎 元森永製菓㈱コピーライター   
      現㈱電通常務取締役
藤本 倫夫 元広報部長   
      前森永製菓㈱食品部長
中村 達  広報部長
司会
松尾彦三郎 広告課長

…(前略)…

大ヒット赤ちゃんコンクール

…(中略)…
 藤本 赤ちやんコンクールは,最初に岡山ではじめたんですが、これはもっと前のことです。26年、当時私が岡山に出張したとき、岡山大学の浜本先生にお会いしたら、県で育児の品評会を計画してるんだが、予算がないという。これにヒントを得て、それではコンクールにしようじゃないかということで、当時森永に非常に好意的だった方が山陽新聞におられて、たいへん力を入れて下さった。そんな関係もあって、岡山で最初にはじめたんですが、当時岡山地区は、他社のシェアが80%もあったんですけど、赤ちゃんコンクールが契機になって、市場を2年そこそこで逆転した。その効果をみて、これを全国的に広げていったわけです。これが森永と保健所、県庁、そういった公的関係との結び付きになったと思いますね。それがだいたい30年のMF事件まで、非常に森永乳業と、そういった方面とのPR的な意味の効果をもっていた。それがたまたま、ああいう問題が出ましたけれども、赤ちゃんコンクールによる復興期における援助というのは、非常に大きな効果をもたらしたと思うんです。そういう意味では赤ちゃんコンクールは、大きな催しだった。

 司会 出陽新聞の次は,どの地区からはじめられたんですか。

 藤本 それから徳島ですね。ところがたまたま、MFも同じところではじまっちゃったんですね。それが岡山も徳島も、いずれも市場の占有率が逆転したという効果があったところです。これは地方新聞と、その後いろいろな催し物を次々とやりましたけれども、地方新聞を活用して、地元の一県一紙を対象にして、キャンペーンをやるというひとつの習慣をそのときから植えつけたと思うんです。

 乳業の新しい企業イメージを確立

 司会 ではこのへんで、外部からみた森永乳業の宣伝活動について新井さんからお話をおうかがいしたいと思います。

 新井  乳製品について、戦前は森永傘(さん)下の一商品にしか過ぎなかったわけです。だから森永では乳製品もやっているのかぐらいしか、一般には印象を植えつけられなかったと思います。

ところが戦後のいちばん大きな特色は、森永製菓のイメージから独立したということです。そして森永乳業という新しいイメージを、いまお話のあったいくつかの催しだとか、企画によって、それを積み上げることにより、そういうイメージを確立した。それが現在まで引き継がれてきているわけですね。その次が藤本さんの時代に起こったMF事件で、普通の場合だったら、あれで会社はつぶれていましたよ。それが意外なくらいに早く立ち直って回復し、あれだけの損害を受けながら、それをあまり意としないぐらいな成長をとげた。これにはもちろん、会社をあげての総力が、ああいう結果を生んだことは間違いないんですけど、ことに宣伝の面でくじけなくて、新しい意欲で、みんなの気持ちを引っぱって行き、森永に対する好意と理解というものを急速に回復したのは、宣伝の力が大きいと思うんです。やはりいま申し上げたふたつのことがいちばん大きな成果だったと思います。

…(後略)…

『森永乳業五十年史』p466ー467
 








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森永ヒ素ミルク中毒事件資料館 岡崎久弥
森永ヒ素ミルク中毒事件資料館 岡崎久弥
1955年、原乳の腐敗を隠すため産廃由来のヒ素混入物質を投入した森永乳業の粉ミルクで130人以上の乳児死亡、1万3千人の患者。反省なき森永は国を使って20年に亘り救済運動を弾圧。不買運動で倒産寸前となった森永は渋々救済案に応じるが、以降も不正な工作を続け2022年再び提訴された。